十六 (承前) 「なんということだ……」 信方(のぶかた)は茫然(ぼうぜん)と呟く。 上首尾と思えた合戦の裏で奸計(かんけい)が蠢(うごめ)いており、それを首謀していたのは味方と思っていた同盟の相手だった。 しかも、武田家には何も知らされておらず、家中にはこの戦(いくさ)を契機として内紛が起ころうとしており、すでに結束は崩壊したも同然である。 ――いったい、武田家はどこに行こうとしているのか? 当惑しながら立ち竦(すく)む信方の脳裡(のうり)に浮かんだのは、そんな思いだった。 同時に、胃の腑(ふ)から熾烈(しれつ)な怒りが湧き上がってくる。 ――身勝手な奴ばらが身勝手な理屈を振り回し、己の保身だけに走る。そこには武門に生きる者として持つべき信義など微塵(みじん)もなく、寄るべき大義もとうてい見出せない。それが今の当家を取り巻く状況。その中で、若だけが理不尽な忍耐を強いられている。もはや、堪忍ならぬ! 信方は憤怒を隠そうともせず、原(はら)昌俊(まさとし)と向き合う。 「昌俊、そなたにも話しておかねばならぬことが、いくつかある」 「なんであろうか」 「今、家中に謀叛(むほん)も同然の動きがある」 「謀叛!?……まことか」 「まことだ。青木(あおき)信種(のぶたね)殿の寄合で決起を呼びかけ、起請文(きしょうもん)への血判を集めているらしい。しかも……」 信方は飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)から聞いた話をすべて伝えた上で言葉を続ける。 「……駒井(こまい)殿はあくまでも武川(むかわ)衆筆頭の座を奪還するための決起のような口振りだが、二段構えで民の嗷訴(ごうそ)まで用意しているとなれば、内輪の話し合いだけで済むはずがあるまい。下手をすれば、武川衆が二つに割れて領内での戦いとなってしまう」 「その通りだな」 原昌俊は険しい表情で頷(うなず)く。 「駿府(すんぷ)からお戻りになる御屋形(おやかた)様の一行を新府の手前でお止めするとは、駒井殿もずいぶんと思い切った策を講じたものだ。まさに命懸けの構え。土屋(つちや)殿の所業が、よほど肚(はら)に据えかねたということか。されど、御屋形様の前で騒動などを起こせば、ただで済むとは思えぬが」 「青木殿の一派は土屋殿が家宰(かさい)の座に就くことを阻止しようとしている。そうとなれば、事態は武川衆の内輪揉めでは収まるまい。さきほどの村上(むらかみ)、諏訪(すわ)の動きも含め、これは武田家の先行きや若の今後に関わる大きな問題ゆえ、決して看過できぬ。家中の……家中における……」 そう言いかけ、信方は俯(うつむ)きながら右の拳(こぶし)を握り締める。己が胸の裡(うち)に渦巻く感情を確かめるように、しばらく深い呼吸を繰り返してから顔を上げた。