よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   八十一(承前)

『安中(あんなか)城と松井田(まついだ)城を急襲攻略』
 この報告を聞いた信玄の反応は、重臣や側近たちにとっても意外なものだった。
「……勝手な真似をしおって」
 口唇を歪(ゆが)ませ、怒りを露(あら)わにする。
「余に何の断りもなく、勝手に碓氷(うすい)郡へ兵を出すとは……。義信(よしのぶ)は何をはき違えておるのだ! すぐに、ここへ呼び戻せ! 兵部(ひょうぶ)もだ!」
 信玄は控えていた近習(きんじゅう)に命じる。
「はっ!……承知いたしました」
 曽根(そね)昌世(まさただ)は弾かれるように躑躅ヶ崎(つつじがさき)館を後にした。
 そのまま愛駒を駆り、夜遅くに西上野(にしこうずけ)の国峯(くにみね)城へ到着する。
「義信様に御注進!」
「おお、昌世ではないか。いかがいたした、血相を変えて……」
 義信は驚きながら迎える。
「御注進、申し上げまする。義信様におかれましては、ただちに躑躅ヶ崎館へお戻りになられますよう、御屋形(おやかた)様から仰せつかっておりまする」
「館へ?……どういうことだ、それは」
 眉をひそめ、義信が近習の顔を見る。
「……どうか、急ぎお戻りになられますよう、お願い申し上げまする」
「父上からの厳命なのか?」
「はい……」
「まさか、お怒りになっておられるというのか?」
「……それは」
 曽根昌世が口ごもる。
「昌世、そなたが見たまま、聞いたままを話せ!」
「されど……」
「そうしなければ、訳がわからぬ。なにゆえ、父上がお怒りなのか」
 義信は近習の両眼を真っ直ぐ見つめる。
 その眼光の鋭さに、昌世は思わず俯(うつむ)いた。
「わかりました……」
 曽根昌世は意を決したように言葉を続ける。
「御屋形様は『断りもなく、勝手に碓氷郡に兵を出すとは何事か』と仰せになられました」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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