第七章 新波到来(しんぱとうらい)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「……下伊那から兵を出すならば、西上野から兵を間引き、信濃南部の守りに向かわせるしかないかと」
「さようだ。現在の今川家に、遠江を持ち堪えるだけの力はあるまい。実際このところ、余は西上野から一気に兵を退き、東海道へ向けることを本気で考えていたのだ。松平党の如きに遠江を蹂躙(じゅうりん)されるくらいならば、われらの軍勢で制した方がましだ。されど、そこに碓氷郡出兵の一報が届いた。まさに、寝耳に水。幸いにも城攻めは長びかなかったが、そなたの振舞を手放しで誉めるわけにはいかぬ。戦場での行動にたとえるならば、一種の抜駆けだからな。それがそなたをここへ呼び寄せた理由だ、義信」
信玄は冷徹な口調で言い放った。
「……申し訳ござりませぬ。出過ぎた真似をいたしました」
義信は深く頭を下げる。
「この身の浅慮を恥じ入りまする。まことに申し訳ござりませぬ」
飯富虎昌も同じように両手をついて低頭した。
「わかればよい。問題は、どうやら東海道の情勢がわれらの考えよりも複雑であり、予断を許さぬということだ」
信玄が眉をひそめながら言葉を続ける。
「余が調べたところによれば、今川から寝返った松平元康(もとやす)は義元からの偏諱(へんき)である「元」の字を返上し、家康(いえやす)と名を改めたらしい。義元殿に倣(なら)った花押(かおう)の形まで変え、今川家からの決別を示したのは、すべて尾張(おわり)の織田(おだ)三郎信長(さぶろうのぶなが)と盟を結ぶためだ。その松平家康が一統を率いて東三河と遠江を奪わんとしている。おそらく、その動きも三郎信長の先兵としての役割と考えるべきであろう。されど、信長にしてからが美濃の斎藤龍興との戦いに明け暮れ、東海道には手が回らぬと見える。その証左に、三郎めがしきりに書状と進物を贈ってきよる」
桶狭間(おけはざま)の一戦後、織田信長は信玄に進物を贈り、武田家には敵意のないこと伝えてきた。
信玄としてはそれを真に受けていなかったが、信じた素振りをしながら、情勢を見極めようとした。
織田家としても強大な力を持つ武田家が東海道に出張ってくるのを恐れているようだ。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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