よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「武家同士の盟約が永久(とわ)のものだなどと思うておるならば、そなたは甘すぎるぞ、義信。確かに、有効な盟約ならば長く続くことが互いの利点となろう。されど、周囲の情勢が変われば、おのずと関係も変化してくる。盟友といえども、自国の足枷(あしかせ)となるならば、その関係を見直さねばならぬ。時には見切りをつけ、手切(てぎれ)をとなる場合もあるのだ。非情といわれようとも、そこは冷徹に事を判じなければならぬ。決して情に流されてはならぬのだ」
「……さ、されど、今川家は特別な相手ではありませぬか」
 この嫡男は今川義元の娘を正室に迎えており、今川家とは切っても切れない縁がある。
 さらに母である三条(さんじょう)の方(かた)も、今川家の仲介で京から嫁いできたのであり、父の三条公頼(きんより)を通じて駿府(すんぷ)とは特別になじみが深かった。
 義信にしてみれば、義理の父である今川義元を敗死させた織田家と誼を通じるなど言語道断のことだった。
「特別な相手か……」
 信玄は小さな溜息(ためいき)をつく。
「……確かに、少し前まではな。されど、いまの今川家は海道一の弓取りと称されていた義元殿の頃とは、別の今川家になりさがっている。御所絶えなば、吉良(きら)が嗣(つ)ぎ、吉良絶えなば、今川が嗣ぐといわれてきた、天下の副将軍家でもない。桶狭間の一戦以来、すべてはまったく変わり果てたのだ。われらもそのことを正面から受け止めねばならぬ。そこには情を差し挟む余地などあらぬ」
「では、当家が今川家を見限ることもあるということにござりまするか?」
「ないとは断言できぬ」
「なにゆえ……なにゆえにござりまするか?」
「当家にとっては、それだけ東海道へ出るための遠江と駿河が重要だからだ」
 山に囲まれた領国から、海のある東海道へ出ることは信玄の密かな悲願でもあった。
「それならば、今川家と一緒に守ればよいではありませぬか!」
 義信が必死で食い下がる。
「しつこいぞ、義信! それができる力が、もはや今の氏真にはないと申しておるのだ。まだ、わからぬか」
「いいえ、わかっておりまする。されど、もしも、当家が今川家を見限ることになれば、御方や母上を得心(とくしん)させられませぬ」
 それが嫡男の本音だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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