よみもの・連載

信玄

第七章 新波到来(しんぱとうらい)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 己の正室や母親は、縁の深い今川家の行末を深く案じ、それを義信に伝えている。
「裏方のことなど、この場に持ち出すでない! 今は当家の存亡のことを話しておるのだ、莫迦(ばか)者めが!」
 信玄は顔色を変えて怒鳴る。
 飯富虎昌は固唾(かたず)を呑み、にわかに雲行きの怪しくなった親子の申し結びを見ていた。
「莫迦者とまで罵られるのならば、この身もはっきりと申し上げまする。長らく盟約を通じて共に歩んできた今川家を裏切り、仇敵(きゅうてき)の織田などと誼を通じれば、『武田は義理を欠いた外道』と他国の笑い者になりまする! どうか、織田などは相手にせぬと、ここで仰せになられてくださりませ。お願いいたしまする」
 義信は真剣な面持ちで両手をつく。
「義理を欠いた外道、だと?」
 言葉を荒らげた嫡男に、信玄が青筋を立て、身を乗り出す。
 それを見た飯富虎昌が執り成しに入る。
「義信様、お言葉が過ぎまするぞ。御屋形様に、お詫びを」
 義信は恨めしそうな表情で、傅役(もりやく)を見つめる。
「ささ、早くお詫びを」
 飯富虎昌は信玄の逆鱗(げきりん)に触れる前に話を終わらせようとする。
「若、よくお考えを。御屋形様が盟友の仇敵である織田と誼を通じるなどという非道を押し通される訳がありますまい。ただ、様子を見ると仰せになられているだけにござりまする」
 この重臣は嫡男を諭す振りをしながら、さりげなく主君を諫(いさ)めていた。
 それがかえって信玄の癪(しゃく)に障る。
「兵部、余計な差出口(さしいでぐち)を叩(たた)くでない!」
 怒声を発したが、次の一言をかろうじて呑み込む。
 ――他の者に遠江、駿河を蹂躙されるぐらいならば、いっそ盟約を破棄してでも今川を滅ぼした方がましだ!
 そんな思いが脳裡をよぎっていた。
 だが、北条家を含めた三国の同盟はまだ生きており、織田信長に誼を通じることは盟約を踏みにじることになる。
 その決断は途轍(とてつ)もなく重く、今の信玄にも容易(たやす)く下せるものではなかった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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