よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   七十六(承前)

 越後(えちご)勢と入れ替わるように、窮地を脱した旗本に味方の騎馬団が現れる。
「保科(ほしな)! 何があった?」
 飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)が手綱を引き、駒を止めた。
「兵部(ひょうぶ)殿! 実は……」
 保科正俊(まさとし)は今しがた起こった出来事を赤備(あかぞなえ)衆の大将へ手短に伝える。
「何ということだ……。して、御屋形(おやかた)様はご無事か?」
「いま手当をなされておりまする」
「兵部殿、それだけでなく……」
 保科正俊は山本(やまもと)菅助(かんすけ)、室住(もろずみ)虎光(とらみつ)、そして、武田信繁(のぶしげ)の討死を知らせる。
「豊後(ぶんご)殿、それがしが我儘(わがまま)を申さねば……」
 拳を握りしめ、虎昌が天を仰ぐ。
 その双眸(そうぼう)は血走り、うっすらと濡(ぬ)れていた。 
「……われら奇襲隊が空の敵陣に踏み込み、くだらぬ生餌(いきえ)の殿軍(しんがり)を追いかけている間に、典厩(てんきゅう)様までが……。おのれ! おのれ! おのれ!」
 共に先陣を担ってきた武田信繁の討死を聞かされ、赤備衆の大将は何度も大地を踏みしめた。
 そこに前方から味方の怒声が響いてくる。
「景虎(かげとら)がいるぞ!」
 さらに別の声も上がった。
「行人包(ぎょうにんづつみ)を逃がすな! 引っ捕らえよ!」
 その叫びを聞き、飯富虎昌の怒りが一気に沸点へと達する。
「保科、そなたの馬を貸してくれぬか!」
「兵部殿……」
「あれが本物であれ、偽者であれ、われらの陣中から行人包を生かして帰すわけにはいかぬ! 疾(はや)い馬が必要ゆえ、そなたの馬を借りたい!」
 虎昌は朱塗りの槍(やり)を握りしめ、繋(つな)いであった黒鹿毛(くろかげ)の馬へ歩み寄った。
 保科正俊は愛駒に駆け寄り、飯富虎昌が跨(またが)るまで首筋を撫(な)でながら語りかける。
「良い子だ。兵部殿の仰せのままに動くのだぞ」
「かたじけなし!」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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