第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)8
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
赤備衆の姿を見た香坂隊の士気が一気に復活し、甘粕隊を激しく攻め立てる。
新たな寄手の出現に驚きながらも、越後勢は必死で応戦した。
互いに一歩も退かぬ構えで、激突を繰り返す。
両軍は死闘に次ぐ死闘を重ね、誰も予測できない様相となった戦いは、いよいよ日没の刻限へと向かっていた。
各地での戦況は、使番(つかいばん)によって次々と武田勢の旗本に届けられる。
それを聞きながら、信玄はある言葉を思い浮かべていた。
狂瀾(きょうらん)を既倒(きとう)に廻(めぐ)らす。
唐代の文人、韓愈(かんゆ)が記した一節であり、「荒れ狂う大波を押し返す」という喩(たと)え通り、「完全に敗勢へと傾いた戦いを再び逆転する」という意味があった。
まさに今の状況を端的に表す言葉である。
―─首の皮一枚にまでなった劣勢を、ここまで挽回(ばんかい)できたのは奇蹟(きせき)に近い……。
武田の総大将は、小さな溜息を漏らす。
─―先陣を失った時に動揺し、この床几(しょうぎ)から腰を浮かして八幡原から退いておれば、そのまま敗北に繋がっていたであろう。己が意地を張っただけとはいえ、いくばくか天の佑けもあったと思うべきか……。
信玄は思わず眼を細め、空を見上げる。
その天に、二つの日輪があった。
いや、よく見れば、太陽を包む大きな虹の環だった。
─―なんという酷薄な天日か……。信繁……。
幻日環を見つめながら、喉元までこみ上げる感情を抑える。
─―やっと勝勢(しょうせい)まで盛り返したとはいえ、失ったものがあまりにも多すぎる。それを鑑みれば、この戦は余の負けやもしれぬ。身の丈に合わぬ戦をしてしまったということか……。
それが信玄の偽らざる思いだった。
―─そうなのだとしても、一命を賭して武田の矜持(きょうじ)を守ってくれた者たちのために、決して負けたと思うてはならぬ。……事実、紙一重の勝負であった。あれほど恐るべき太刀を見舞われたのは、生まれて初めてのこと……。
脳裡(のうり)には、己に振り下ろされた刃の輝きが焼きついている。
─―おそらく、余に一騎で斬りかかってきたあの行人包は、本物の景虎であったのだろう。この首筋の痛みが、さように囁(ささや)きかけてくる。
信玄は傷だらけになった軍扇を握りしめた。
たかだか一昼夜の間に、いくつもの合戦をくぐり抜けたような傷みが軆の芯に残っていた。
実際、この戦いにはいくつもの局面が折り重なり、ひとつの合戦の中に夥しい勝利と敗北が積み重なっている。
─―この戦に負けてはおらぬとしても、次ならば勝てるという気はせぬ……。
珍しく弱気な思いが浮かぶ。
だが、周囲の家臣にそれを悟られるわけにはいかなかった。
信玄は己の心情を封じ、床几の上で腕組みをする。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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