よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 飯富虎昌が恐るべき形相で二騎を追い上げる。その疾さが尋常ではなかった。
 保科正俊の黒鹿毛は、武田の家中でも一、二を争う早脚を誇っている。
「ただ逃げ回るだけか、行人包! 相手の虚を衝(つ)くことしかできぬ卑怯者(ひきょうもの)どもめが! うぬらだけは絶対に生かして帰さぬぞ!」
 鬼相となった虎昌に少し遅れ、もう一騎、赤備衆の追手がついてくる。
 上杉政虎の放生月毛はまだしも、宇佐美定満の愛駒は次第に距離を縮められていく。
 老将が振り向き、赤備の敵を確認すると、なぜか手綱を緩める。
「やっと、儂(わし)の出番が回ってきたようじゃ。御屋形様、振り向いてはなりませぬぞ!そのまま、お行きくだされ!」
 宇佐美定満は笑みを浮かべて馬首を返す。
 迫ってくる飯富虎昌の黒鹿毛を見つめ、槍を握り直した。
 急に止まった一騎の姿を見て、赤備の猛将は小さく舌打ちをする。
 ─―何奴か、あの老骨は!
「どけ、老いぼれ! うぬに用はない! 命だけは助けてやるゆえ、そこをどいておれ!」
 飯富虎昌が吼(ほ)える。
「ちょこざいな! うぬの如き小童(こわっぱ)、儂の敵ではないわ!」
 宇佐美定満が応酬する。
 飯富虎昌、齢(よわい)五十八。宇佐美定満、齢七十三。
 確かに越後の最長老からしてみれば、赤備の大将はまだまだ小童にすぎないかもしれない。
 しかし、さすがにその言葉は、飯富虎昌の心胆に火を点(つ)ける。
「言うに事欠き、小童とは何事ぞ! そこになおれ、老いぼれめが! わが槍の露としてくれる!」
「能書きばかり垂れておらぬで、かかって来ぬか、洟垂(はなた)れ小僧! 馬上の槍ならば、まだまだ負けはせぬ!」
 宇佐美定満も名だたる歴戦の強者(つわもの)である。一歩も引く気配はなかった。
 この老将も己を楯にして総大将を逃がす時を稼ごうとしていた。その覚悟に揺るぎはない。
「うおりゃあ!」
 気合一閃(いっせん)、飯富虎昌は黒鹿毛の速度に乗って槍を突き出す。
 鋭い一撃を槍の太刀打ちで弾いて受け流し、宇佐美定満が斜横足(ななめよこあし)で駒を回す。
 勢い余った飯富虎昌は手綱を引き、馬を止めようとした。
 その動きを見切っていたように、越後の老将は側面から素早く槍を繰り出す。
 かろうじて相手の攻撃を避けながら、赤備の猛将が敵から距離を取る。
 ─―この老骨、遣える!?……ただ者ではないな!
 飯富虎昌は相手の見事な手綱捌(さば)きと老獪(ろうかい)な攻撃に驚いていた。
「ほう、小童とはいえども、赤備の大将ならば、相手に不足はなし!」
 宇佐美定満は槍を構えて不敵に笑う。
「それをほざく、うぬも老いぼれながら越後の寶首(たからくび)であろう。おとなしく隠居しておればよいものを!」
 虎昌は用心深く構えながら相手の隙を窺(うかが)う。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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