よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「たった二騎で、われら赤備を足止めしようなど、百年早いわ! その二騎は任せたぞ!」 
 虎昌は赤備衆に命じ、自らは先を行く三騎を追い始めた。
 立ちはだかろうとする政虎の馬廻衆二騎に向かって、三十騎ほどの赤備衆が押し寄せる。
 和田兵部は果敢に槍で突きかかり、宇野左馬之介も大太刀を振り回す。
 しかし、二人ともあっという間に深手を負わされ、まずは和田兵部が力尽きて馬から落ちる。残った宇野左馬之介は敵の十騎を相手に最後の力を振り絞るが、一斉に突きかかられ馬上で絶命する。
 飯富虎昌はその様を眼の端にも止めず、前方の三騎だけを見据える。
 ─―絶対に逃さぬぞ! 覚悟せよ!
 上杉政虎と残った二人は対岸へ渡りながら、和田兵部と宇野左馬之介の最期を瞳の端で捉えていた。
 対岸の牧島へ渡り終えた途端、和田喜兵衛が叫ぶ。
「御屋形様、それがしは弟の仇(かたき)を討ちとうござりまする! それゆえ、ここにて、お別れさせていただきまする! 御免!」
 ただ一騎で馬首を返し、河を渡ろうとしている飯富虎昌と武田赤備衆の追手に向かう。
「喜兵衛!」
 上杉政虎が手綱を引こうとするが、宇佐美定満がそれを制する。
「御屋形様、覚悟を決めた家臣たちの命を無駄にしてはなりませぬ!」
 老将が厳しい口調で諫(いさ)めた。
「無念にござりまするが……」
 宇佐美定満が愛駒を進める。
 上杉政虎も険しい表情で鐙(あぶみ)を踏みしめ、手綱をあおった。
 背後では、和田喜兵衛が最後の追手を止めるべく、十数騎の敵に突撃してゆく。
 この兄も槍の名手であり、たった一人で武田の騎馬武者を相手に獅子奮迅(ししふんじん)の働きをする。
 しかし、どれほどの手練(てだれ)であろうとも、一騎が倒せる数には限界があった。
 和田喜兵衛は次々と攻めかかる赤備衆の手練に討ち取られる。
 味方の最期の声が牧島の川縁に響くが、宇佐美定満は決して振り向こうとしない。
 上杉政虎も馬を走らせ続けるが、その胸中には深い慚愧(ざんき)の念を抱いていた。 
 ―─家臣たちの命を楯(たて)にせねば生き延びられぬとは、なんと無様な総大将であるか……。
 それが武神とまで謳(うた)われた漢(おとこ)の正直な思いだった。
 同時に、我儘を通した戦いがもたらす無惨な結果をひしひしと感じていた。
 ─―それでも、宇佐美の申す通り、この身は生還せねばならぬ。できねば、家臣たちが敗北の汚名を着せられ、多くの忠死が無駄になってしまうであろう……。
 上杉政虎がそんな思いを抱いたのも初めてのことである。 
 最後に残った二騎は飯山(いいやま)街道を北上し、布野(ふの)の渡しから長沼(ながぬま)を経て、善光寺(ぜんこうじ)へ向かおうとしていた。
 その背中に激しい罵声が投げつけられる。
「待て、臆病者めが! いつまで背中を晒(さら)して逃げるつもりか!」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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