よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「宇佐美、刀を頼む」
 上杉政虎は老将に愛刀を渡す。
 それから、行人包を解(ほど)き、白妙(しろたえ)の練絹(ねりぎぬ)も手渡した。
「これで傷口を縛っておくがよい」
 練絹を受け取った老将は眼を潤ませ、小さく鼻をすする。
「御屋形様……」
「ずいぶんと無様な戦をしてしまったものよ。かように我執に囚われた戦いをしていたのでは、天にも見放されようて」
 政虎は自嘲の笑みをこぼす。
 ─―この身がいかに無様であろうとも、共に戦ってくれた家臣たちのために後悔してはならぬ。
 自戒をこめ、己の思いを嚙みしめる。
 ─―こたびは初めて、戦いの中で言いしれぬ懼(おそ)れを感じた。未だに、なにゆえ、わが切先が相手の喉笛へ届かなかったのか、わからぬ……。あ奴に、武田晴信には、この身以上の天の佑(たす)けが宿っていたということか?……されど、あの刹那、確かに戦いの深淵(しんえん)を垣間見(かいまみ)ることはできた。その奥深さが、言葉にならぬ懼れをこの身に抱かせたのも確かである。まだまだ、毘沙門天王(びしゃもんてんのう)の境地には、ほど遠いということか……。
 上杉政虎は再び天を仰ぐ。
 白虹が眼に染み、思わず奥歯を嚙みしめる。
 二人を乗せた放生月毛は布野の渡しで再び千曲川を渡り、越後勢の本隊が戻っているはずの善光寺へ向かって疾駆していた。
 同じ頃、日暈を瞳に映した飯富虎昌が、初めて一筋の泪(なみだ)を流していた。
 ─―なんという天の様であるか……。典厩様、豊後殿、道鬼斎。皆まだ、そこにおるというのか……。
 まるで朋輩(ほうばい)たちの魂魄(こんぱく)が日輪に吸い寄せられたような光景だった。
 それを見上げながら、胃の腑(ふ)からせり上がってくる感情はすでに言葉として表現できるものではなかった。ただ様々な思いが灼熱(しゃくねつ)を帯び、溶岩の如く己の喉を締めつける。
 突然の悲劇に襲われた時、人は最初、泪することさえできない。先刻、三人の討死を知らされた虎昌もそうであり、落涙することもなく、感情の空白に包まれたまま呆然(ぼうぜん)と立ち竦(すく)むだけだった。
 そして、本当の悲しみというものは、その空白を経て、心奥に熱が戻った後、静かに天から舞い降りてくる。
 今が、その時だった。
 ─―何もできなかった……。そなたらの恩に報いることが、できなかった。相すまぬ……。
 やり場のない感情の渦に巻かれながら、赤備の猛将は流れた涙と切れた口唇から流れ出す血が混じった味だけを嚙みしめる。
 一度流れてしまえば、己の落涙を止める術はなかった。
 血に染まった大地の上で、飯富虎昌は誰に憚(はばか)ることなく慟哭(どうこく)する。
 信じ難い幻日環だけが、ただ頭上にあった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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