六 冬の澄み切った黎明(れいめい)が、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を照らし始めていた。 その一角にある具足の間で、晴信(はるのぶ)は神妙な面持ちで床几(しょうぎ)に腰掛け、乱髪をさげた頭に折烏帽子(おりえぼし)を被る。大井の方が烏帽子の上に真っ白な鉢巻をかけて締めた。 脇には信方(のぶかた)の妻、於藤(おふじ)が寄り添い、具足の着付けを手伝っている。 錦襟の鎧直垂(よろいひたたれ)を身に纏った晴信は、左袖を抜いて脇にたたみ、袴(はかま)の括緒(くくりお)をきつくしめてから脛巾(はばき)を当てた。於藤が渡した籠手(こて)をつけ、脇楯(わいだて)、佩楯(はいだて)が次々と下げられ、鎧姿ができ上がっていく。胴に武田菱(びし)の金泥大紋が入った大鎧を身につけ、晴信は金銀装の美太刀(びたち)を佩(は)いた。 それから、静かに眼を閉じる。ゆっくりと息吹を繰り返し、己の心気を整えた。 その様を、大井の方と於藤が瞳を潤ませながら見守っていた。 「よし!」 晴信は瞼(まぶた)を開き、気合をこめて立ち上がる。 「では、行って参りまする」 具足の着付けを手伝ってくれた母と於藤に小さく頭を下げた。 「御武運をお祈りしておりまする」 二人も深々と頭を下げる。女人が付き添えるのはここまでだった。 晴信は大股で具足の間を出る。 外では軍装の信方が待っていた。 「若、立派な御姿にござりまする。では、参りましょう」 「うむ」 晴信は緊張した面持ちで短く答える。 二人は館の御霊舎(みたまや)へ向かった。 そこには出陣の支度を調えた者が勢揃いし、初陣の儀を待っていた。 厳かな沈黙の中、晴信は御旗(みはた)と楯無(たてなし)が祀(まつ)られた御神棚の前へ進む。待機していた神人の大幣(おおぬさ)で左右左(さうさ)の祓えをおこない、それを受けてから床几に腰掛ける。大幣とは、祓串(はらえぐし)に紙垂(しで)と大麻を括り付けた神具だった。 それから、初陣の勝利を願う厳かな祝詞(のりと)が響いた。その朗誦(ろうしょう)が終わると、引き続いて三献(さんこん)の儀が行われる。