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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志9 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 別の神人が晴信の前に肴組(さかなくみ)の載った高脚の膳を運んできた。肴組とは、白い土器の三重盃と「打ち、勝ち、喜ぶ」を表す縁起物、打鮑(うちあわび)、勝栗(かちぐり)、結昆布(むすびこんぶ)を折敷の上に載せたものである。
 晴信が祝箸(いわいばし)を手に取って打鮑の一片を食すと、神人が御神酒(おみき)の入った長柄(ながえ)の片口(かたくち)を差し出す。大紋(だいもん)直垂の袖を払い、晴信はうやうやしく両手で三重盃のひとつを取り、深く一礼した。
 そこへ長柄所役(ながえしょやく)の神人が御神酒を注ぐ。ここでも仕来(しきた)りがあり、長柄所役は「そび、そび、ばび」と心中で唱えながら、三回に分けて酒を注がなければならない。そびとは鼠尾のことであり、まずはじめの二回は鼠(ねずみ)の尾ほど細く静かに酒を注ぎ、最後だけは縁起を担いで太く長く酒を注ぐ。ばびは馬尾のことを意味していた。
 その後は同じ要領で、勝栗を食して三注一献、結昆布を食して三注一献となり、三つの盃すべてを飲み干した。
 そして、初陣の儀の最後は、御旗と楯無への拝礼(はいらい)である。
「御旗楯無も御照覧あれ」 
 晴信は天津神(あまつかみ)と国津神(くにつかみ)に見立てた先祖伝来の宝物に八度拝(はちどはい)八開手(やひらて)を捧げた。
 これが天文(てんぶん)五年(一五三六)十一月二十日のことだった。
 先月の末に出陣が決まってから、急に天候が崩れ始め、曇天が続いて冷え込んでいる。昨夜は暴風が吹き荒れ、激しい寒雨が降り続き、出陣が危ぶまれるほどだった。
 晴信は大きな不安を抱えながら、何度も蔀(しとみ)を開けて外を見た。
 ――このまま、嵐が続き、出陣がとりやめになってくれれば……。
 そんな逃げの思いが頭をよぎる。
 ――いや、これはどうしても勝ち抜かねばならぬ戦いなのだ。逃げたくとも、逃げられはせぬ。
 己に取り憑(つ)こうとする弱気を振り払いながら、まんじりともせず一夜を過ごす。
 払暁を迎える頃になると、重い雨雲が強風に流され、空は冷たく澄んで晴れた。
 晴信の初陣の儀も滞りなく終わり、いよいよ総大将による鬨(とき)の儀が行われることになった。
 兜所役(かぶとしょやく)の小姓が白熊の兜を運んで信虎(のぶとら)に被せ、弓所役が恭(うやうや)しく左手に重籐(しげとう)の弓を渡す。
 信虎は右手の軍扇(ぐんせん)を開いて立ち上がり、鹿皮の白毛を四股(しこ)のように踏んで鬨の声を上げる。
「いざ、出陣! 鋭(えい)、鋭、鋭!」
「応(おう)!」
 家臣たちも立ち上がり、鯨波(げいは)が広がった。
 出陣に向けての気勢が高まったところで、信虎が愛駒に跨(また)がり、日輪の入った鉄の軍扇を振り下ろす。
 前備(さきそなえ)を担う軍勢が北西の逸見路(へみじ)に向かって進み始める。逸見路は諏訪口筋(すわぐちすじ)とも呼ばれ、甲斐から諏訪の信濃へ至る重要な古道だった。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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