連載
新 戦国太平記 信玄
第二章 敢為果断(かんいかだん)8 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

   十   (承前)

 ――御屋形(おやかた)様の声色から察するに、かなり深くお酔いになられているようだ。されど、なにゆえ、かような夜更けに、この場所へ……。
 信方(のぶかた)は首筋から血の気が引くのを感じながら足を速めた。
 すると、眼前に主君の背中が見えてくる。
「余はそこをどけと申したのだぞ」
 信虎(のぶとら)の正面には、強ばった面持ちの侍女(まかたち)頭、常磐(ときわ)が立ちはだかっていた。
「……申し訳……ござりませぬが……」
「うぬの言分など聞いておらぬ。どけ、下臈(げろう)!」
 信虎の怒声が飛ぶ。
 その一喝に、教来石(きょうらいし)信房(のぶふさ)が背筋を凍りつかせ、立ち竦(すく)む。
 信方でさえも直立不動になってしまいそうな剣幕だった。
 しかし、常磐は怯(ひる)むことなく信虎を真っ直ぐに見つめている。
「……申し訳ござりませぬが、奥を預かる者として御屋形様といえども、かような時刻にお通しすることはできませぬ」
「舅(しゅうと)が倅(せがれ)の嫁に訓(おしえ)を施そうと申しておるのに、通せぬとは何事か!」
 信虎は酔眼を細め、侍女頭を睨(にら)みつける。
「……御方様はすでに御床に入られて久しく、夜も更けましたゆえ、訓をいただくならば、明日改めてということで、お願いいたしたく存じまする」
「舅がわざわざ参ったというのに、出迎えることもできぬと申すか。すぐに起きて、愛想よく酌のひとつでもするのが、倅の嫁の務めというものであろう。京の女というのは、さように愛想がないのか。まったく躾(しつけ)がなっておらぬな」
「……懼(おそ)れながら申し上げますが、御方様は酌婦ではござりませぬ。されど、然(しか)るべき御家族の団欒(だんらん)などありましたら、進んでお酌などもなされると思いまする。時刻も遅うござりますゆえ、どうか、ご堪忍をお願いいたしまする」
 直角に腰を折り、常磐が頭を下げる。
「うぬでは話にならぬ! ならば、まず、勝千代(かつちよ)を起こしてまいれ!」
「……勝……千代?」
「倅の名も覚えておらぬのか。至らぬ下臈めが」
「あっ……。晴信(はるのぶ)様の御幼名……な、なにゆえ」
「余にとっては、まだ出来の悪い小童(こわっぱ)にすぎぬからだ。まず勝千代をここに連れてこい!」



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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