十 (承前) ――御屋形(おやかた)様の声色から察するに、かなり深くお酔いになられているようだ。されど、なにゆえ、かような夜更けに、この場所へ……。 信方(のぶかた)は首筋から血の気が引くのを感じながら足を速めた。 すると、眼前に主君の背中が見えてくる。 「余はそこをどけと申したのだぞ」 信虎(のぶとら)の正面には、強ばった面持ちの侍女(まかたち)頭、常磐(ときわ)が立ちはだかっていた。 「……申し訳……ござりませぬが……」 「うぬの言分など聞いておらぬ。どけ、下臈(げろう)!」 信虎の怒声が飛ぶ。 その一喝に、教来石(きょうらいし)信房(のぶふさ)が背筋を凍りつかせ、立ち竦(すく)む。 信方でさえも直立不動になってしまいそうな剣幕だった。 しかし、常磐は怯(ひる)むことなく信虎を真っ直ぐに見つめている。 「……申し訳ござりませぬが、奥を預かる者として御屋形様といえども、かような時刻にお通しすることはできませぬ」 「舅(しゅうと)が倅(せがれ)の嫁に訓(おしえ)を施そうと申しておるのに、通せぬとは何事か!」 信虎は酔眼を細め、侍女頭を睨(にら)みつける。 「……御方様はすでに御床に入られて久しく、夜も更けましたゆえ、訓をいただくならば、明日改めてということで、お願いいたしたく存じまする」 「舅がわざわざ参ったというのに、出迎えることもできぬと申すか。すぐに起きて、愛想よく酌のひとつでもするのが、倅の嫁の務めというものであろう。京の女というのは、さように愛想がないのか。まったく躾(しつけ)がなっておらぬな」 「……懼(おそ)れながら申し上げますが、御方様は酌婦ではござりませぬ。されど、然(しか)るべき御家族の団欒(だんらん)などありましたら、進んでお酌などもなされると思いまする。時刻も遅うござりますゆえ、どうか、ご堪忍をお願いいたしまする」 直角に腰を折り、常磐が頭を下げる。 「うぬでは話にならぬ! ならば、まず、勝千代(かつちよ)を起こしてまいれ!」 「……勝……千代?」 「倅の名も覚えておらぬのか。至らぬ下臈めが」 「あっ……。晴信(はるのぶ)様の御幼名……な、なにゆえ」 「余にとっては、まだ出来の悪い小童(こわっぱ)にすぎぬからだ。まず勝千代をここに連れてこい!」