「……申し訳ござりませぬ」 「ならば、どけ! 余が引き摺り起こしてくれるわ」 「……ご堪忍くださりませ」 「ほう、どうあっても、どかぬつもりか。甲斐の国主を門前払いしようとは、大した度胸だ。されど、そこまで余を見くびるならば、相応の覚悟はできておるのであろう。手討ちとなっても構わぬということだな。望み通り、刀の露としてくれる。おい、虎重(とらしげ)。わが得物を持て!」 信虎は近習頭(きんじゅうがしら)の荻原(おぎわら)虎重に向かって怒鳴る。 「お、御屋形様、ど、どうか、御刀だけは……」 「すぐに持ってこい! わが愛刀の抜身を見ても、こ奴が意地を張れるかどうか、性根を見定めてくれるわ」 「……御屋形様、どうか、それだけは……それだけは、ご勘弁を」 顔色を失った荻原虎重が懸命に執りなそうとしていた。 そこに、信方が駆け寄る。 「御屋形様、いかがなされました」 「……駿河(するが)、なにゆえ、うぬまでがここにおる?」 信虎は怪訝(けげん)そうな面持ちで、信方を上から下まで睨(ね)め回す。 「若の御屋敷がなにやら騒がしいと報告を受けまして、賊でも忍び込んだのかと思い、馳せ参じました」 「賊?……なんだ、それは。まさか、余のことを申しておるのではなかろうな?」 「滅相もござりませぬ。かような時刻ゆえ、まさか御屋形様がお出ましになっておられるとは、思いませなんだ。何かお急ぎの件でもござりましたか?」 「輿入(こしい)れしてから、しばらく経つというのに、まったく愛想もないゆえ、少しばかり行儀に関して訓を施してやろうと思うてな」 信虎が忌々(いまいま)しそうに吐き捨てる。 呼気から酒の匂いが溢れ、心なしか呂律(ろれつ)も廻(まわ)っていないように思えた。 「ああ、さようにござりましたか……」 困ったような表情で、信方が頭を搔く。 「……御屋形様、それに関しては、この板垣(いたがき)めに非がありまする」 「いかな意味で申しておるのか?」 「それがしが常磐殿に『御屋形様は日頃からお忙しく、気難しい御方ゆえ、無闇に御機嫌伺いなどを望まぬように』と申し送りいたしました。おそらく、それを間に受け、三条(さんじょう)の御方(おかた)様はあえて御機嫌伺いを避けていたのでありましょう。申し訳ござりませぬ」 「余計なことを」 「御屋形様を煩わせてはならぬと考えまして、常磐殿にはきつく釘を刺してしまいました。それが無愛想と映り、かえって御無礼となってしまうとは……。重ねて、相すみませぬ」 信方は咄嗟(とっさ)に常磐を庇(かば)う。