「板垣、何やら騒がしいようだがいかがいたした?」 「……ええ……山から飢えた猪(しし)の親子が下りてきたらしく、屋敷に入りそうになったので追い払ったところにござりまする」 「山から猪の親子?」 「あ、はい……。信房が見つけまして、事なきを得ましたが……」 「さようか。人の声が響いたので、御方が眼を覚ましてしまい、この身が様子を見に来た」 「申し訳ござりませぬ。猪が走り廻ったので、つい声を……」 「仕留めたのか?」 「いいえ、棒を使い、山へ追い返しました」 「それはよかった。屋敷での無益な殺生は、縁起が悪い。悪天候による不作続きで、猪でさえも喰べる物がないということか。人里まで下りてくるとは、よほど腹が空いていたのだな」 「……はい、おそらく。若、もう大丈夫ゆえ、どうかお休みくださりませ」 信方が何とか取り繕う。 「わかった。御方にも伝え、安心させておく」 大きく伸びをしてから、晴信は再び閨(ねや)に戻った。 それを見届けた三人が安堵(あんど)の息をついた。 「大井の御方様にも執りなしをお願いし、とにかく御屋形様への御機嫌伺いを済ませておきましょう」 「お願いいたしまする」 「それまでは普段通りに」 「……わかりました」 「それがしは戻りまする。信房、頼んだぞ」 「はっ!」 教来石信房と常磐は持場に戻り、信方は己の屋敷へ帰った。 翌日、荻原虎重をつかまえ、それとなく信虎の様子を確かめる。 近習頭の話によれば、主君は寝所で酒を呑み直した後、すぐに寝てしまったという。午後に目覚めたが、晴信の屋敷に行ったことさえ覚えていないらしい。 そこで信方は改めて伺候の話を申し入れる。 「御屋形様の訓について、三条の御方様もお気になさっておるようなので、何とか御家族の団欒という形で御機嫌伺いができぬだろうか」 「御機嫌の麗しい時に、それとなくお訊ねしてみますが……確約はできませぬぞ、駿河殿」 荻原虎重が顔をしかめながら答える。 「それで構わぬから、よろしくお頼み申す」 「わかりました」 虎重が少し言いにくそうに切り出す。 「……時に、駿河殿。備前(びぜん)殿とは、何かお話をなされておりまするか?」 次郎の傅役である甘利(あまり)虎泰(とらやす)のことについて訊ねてきた。