よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   五十五

 雪が溶け始める前から、武田の透破(すっぱ)たちは越後(えちご)と信濃(しなの)の国境(くにざかい)を見張っていた。
 そして、四月の中旬、長尾(ながお)景虎(かげとら)が越後勢を率いて春日山(かすがやま)城を出立し、まだ積雪の残る富倉(とみくら)峠に向かったことを確認する。透破の蛇若(へびわか)は富倉峠の頂上で烽火(のろし)を上げ、東の麓にいた手下に越後勢の進軍を知らせた。
 飯山(いいやま)城を囲んでいた真田(さなだ)幸綱(ゆきつな)にそのことを報告し、同時に早馬を飛ばして深志(ふかし)城へ入っていた晴信(はるのぶ)にも伝えた。
「思うていたよりも遅かったな」
 それが晴信の第一声だった。
 同席していた信繁(のぶしげ)と長坂(ながさか)虎房(とらふさ)が訝(いぶか)しげな面持ちになる。
「兄上、飯山城へ援軍を送りまするか?」
「いや、必要ない。景虎が出張ってくることはわかっていたゆえ、真田には策を伝えてある。対処に抜かりはなかろう」
「さようにござりまするか……」
「信繁、こたびは『戦わずして勝つ』の策を用いる」
「百戦百勝は、善の善なる者に非(あらざ)るなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。孫子(そんし)の説かれた謀攻の最善にござりまするか」
「その通り。これまでの二回の戦いを通して、景虎の気性や手の裡(うち)はおおよそわかった。つまり、弱点も見えてきたということだ。こたびは最初から、そこを突くための戦いを仕掛けてある」
「その弱点とは?」
 信繁が眉をひそめながら訊く。
「まあ、しばらく黙って見ておれ。すぐにわかる」
 晴信は薄く笑いながら答える。
 ――高梨(たかなし)政頼(まさより)を攻めたのは景虎を誘い出す罠(わな)であり、その時から兄上はこれまでとまったく違った戦(いくさ)を構えようとなされていたということなのか……。
 信繁は思わず兄の表情を見直した。
 晴信の言葉通り、長尾景虎の富倉峠越えを知った真田幸綱は、あっさりと飯山城の包囲を解く。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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