よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)18

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  二十五 (承前)

 馬の背から飛び降り、晴信(はるのぶ)が躑躅ヶ崎(つつじがさき)館に入っていくと、そこは沈鬱な空気に包まれていた。
 足早に妹の寝所(しんじょ)に向かう途中で、どこからともなく女人(にょにん)たちの啜(すす)り泣く声が聞こえてくる。
 顔から血の気が引いていくのを感じながら、晴信は室に入った。
「兄上……」
 目の縁を赤く晴らした弟の信繁(のぶしげ)が声を詰まらせる。
 その姿を見て、晴信は瞬時に状況を理解した。
「……禰々(ねね)」
 茫然(ぼうぜん)と立ち尽くしながら、顔を白布で覆われた妹を見下ろす。
「……いつ……いつだ?」
 その問いに、項垂(うなだ)れた薬師(くすし)が答える。
「……半刻(一時間)ほど……前にござりまする」
「白布を……布を取って顔を見せてくれ」
「兄上、それは……」
 信繁が眼を潤ませて止めようとする。
「構わぬ……いや……頼む」
 晴信は頽(くずお)れように妹の枕元に跪(ひざまず)く。
 薬師が小さく頷(うなず)き、禰々の顔を覆っていた白布を静かに外す。
 鑞(ろう)のように真っ白な死相だった。痩せこけた頰がすべてを物語っている。
「禰々!」
 信繁が小さく叫び、両手で己の顔を覆う。
 押し殺した弟の嗚咽(おえつ)だけが室に響く。他の者も哭(な)き声を抑えていた。
「……禰々……すまぬ」
 晴信は冷たくなった妹の頰に手を添える。
「余のせいか……禰々」
 死の凍てつきだけを感じながら呟く。
 晴信は細く長い息を吐いた。こみ上げてくる悲しみがないわけではなかったが、それでも泪(なみだ)を堪(こら)えきる。
 静寂の中に、侍女(まかたち)たちのすすり泣きだけが響いていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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