よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)12

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  三十八(承前)

 しばらく思案した後、晴信(はるのぶ)はゆっくりと瞼(まぶた)を開く。
「昨晩、この合戦の行方について、じっくりと考えてみた。われらが何をすべきかではなく、己が敵の立場ならば、いかように考えて戦うか、と」
「はっ」
「そうしたならば、結論はたったひとつしかなかった」
 晴信が静かに言い放つ。
「兵は詭道(きどう)なり」
 詭道とは、「人を偽り欺く方法」のことである。
 兵とは、詭道なり。
 孫子(そんし)が兵法第一「計篇の三」の冒頭で説く戦(いくさ)の本質だった。
「なるほど……」
 跡部(あとべ)信秋(のぶあき)はその一節を暗誦(あんしょう)する。
「兵とは、詭道なり。ゆえに能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓(みだ)し、卑にしてこれを驕(おご)らせ、佚(いつ)にしてこれを労し、親(しん)にしてこれを離す。その無備を攻め、その不意に出(い)ず。これ兵家の勢(せい)、先には伝うべからざるなり」
 それは『戦とは騙(だま)し合いである。ゆえに、能力があっても敵には無能に見せかけ、勇敢でも臆病と見せ、近づいていても遠くにいるように見せかけ、遠方にあっても近づきつつあると見せかけ、敵が利を求めてくるならば誘い出し、混乱させて利を奪い取り、敵に実がある時は防備し、強硬な時は戦いを避け、憤怒しているならばさらに乱し、謙虚な時は驕り高ぶらせ、楽をしているならば疲労させ、親睦が見えたならば離反させる。敵の無防備を攻め、不意をつく。これが兵法家のいう勝勢というものであり、出陣前にはあらかじめ伝えることのできないものである』というような意味だった。
 これを受け、晴信が己の考えを述べ始める。
「つまり、ここに着陣し、初めて痛感したことがある。それは莫迦(ばか)ばかしいほど単純なことだ。相手には、われらの姿が見えている。されど、われらには、まだ相手の姿が見えておらぬ。気配さえも」
「確かに」
「敵はそこにつけ込み、さっそく昨夜の奇襲を仕掛けてきた。おそらく、これからも『算多きが勝ち、算少なきは勝たず』という孫子の教えを実践するつもりであろう」
 この一節は「戦における神算(計略)が相手よりも多ければ勝ち、少なければ当然の如(ごと)く勝てない」という意味だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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