よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)12

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 その夜、空は凍りついたような晴れで、弦月(ゆみはり)と呼ばれる上弦の半月が浮かんでいた。いわゆる七日月(なのかづき)である。
 科野総社を出立した信方は八百の兵を四つに分け、いくつかの沼を迂回(うかい)しながら霜の降りた湿地を慎重に進む。最後の常田沼(ときだぬま)を越え、砦の東虎口が見える低地に身を潜めた。
 一方、蛇若が率いる透破衆はすでに蛭沢川の畔(ほとり)にいた敵の番兵を倒し、砦の北側にある祠に忍び込んでいた。
 ――そろそろ、頃合いだ。散れ!
 蛇若は指先だけで手下に合図する。
 それを見た十名ほどの透破が乾いた萱束(かやたば)と油壺(あぶらつぼ)を手に砦の郭(くるわ)に向かって走り出す。
 蛇若だけが祠に残り、そこで烽火を上げる。一筋の白い煙が立ち上るのと同時に、砦の各所で火の手が上がり、叫び声が響く。
「北から敵襲だ!」
「夜襲をかけられたぞ!」
「火事だ! 火を付けられたぞ!」
 方々に散った透破が叫ぶ。
 それにより砦内が一気に騒がしくなった。寝ぼけ眼(まなこ)で起き上がった敵兵が混乱したまま、右往左往している。
「北側の逃げ道を確保せよ!」 
 透破の陽動につられ、ほとんどの敵兵が得物を手に北側の祠がある場所に向かって走り出す。それは東虎口を守っていた番兵にしても同じだった。
 ――東から来ると思っていた武田勢がなぜか北側から現れ、自分たちの退路がなくなってしまう。
 そんな錯覚を起こしていた。
 砦から上がった烽火を見て、信方も立ち上がる。
「行くぞ、皆の者! まずは東虎口の備えを壊せ!」
 その号令で、先頭にいた二百の足軽衆が一気に坂道を駆けのぼり、幾重にも張り巡らされた柵を倒す。東虎口の扉を丸太でぶち破り、砦の中へ雪崩(なだ)れ込む。
 信方も及び腰で槍を構える敵兵を討ち取り、奥へと進んでいく。
 ほとんどの敵兵は戦意を失って敗走し、北側の沼や川に飛び込んで逃げようとする者もいた。
「深追いはしなくてもよいぞ! それよりも砦の裡(うち)を固めよ!」
 信方が足軽たちに指示する。
 夜襲は思い通りに成功し、五十余名の敵兵を討ち取りながら味方の損害はほとんどなかった。
 ――伊賀守の策が的を射た!
 そう思いながら、信方は砦の中を検分する。
 単郭に加えて粗末な物見櫓(ものみやぐら)が設(しつら)えられていた。
 しかし、そこに上がってみると、周囲の状況が驚くほどよく見える。
 ――この砦を奪ったならば、すぐに焼いてしまおうと思うていたが、どうやら使い出がありそうだ。これならば、村上(むらかみ」の本拠がある北国(ほっこく)街道の西側や千曲川の対岸の動きも見渡せる。科野総社との連係を考えるべきかもしれぬな。
 櫓を降りた信方は、使番に命じる。
「本陣の御屋形様へ無事に勝利したことをお知らせせよ」
「はっ!」
 香坂昌信は報告のため本陣に向かった。 
 ――緒戦からここまで、自軍にはほとんど損害がなく戦を進めてきた。
 信方は勝鬨(かちどき)を上げる兵たちを眺めながら思う。
 ――されど、小県に布陣してから七日が経ったにも拘(かかわ)らず、その実は二つの拠点を落とし、百余りの敵兵を討ち取ったに過ぎぬ。まだ敵の真意も、砥石城を攻略する手立ても、見えてはおらぬ。この戦、思うたよりも長びくやもしれぬ。
 冬空に青白く張りついた弦月を見上げ、信方は大きく白い息を吐いた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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