よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)9

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  三十六(承前)

 一方、教来石(きょうらいし)信房(のぶふさ)を伴って居室へ戻ろうとしていた晴信(はるのぶ)を、弟の信繁(のぶしげ)と原(はら)昌胤(まさたね)が追いかけてくる。
「兄上!」
「おお、信繁か。どうした?」
「先ほどは有り難うござりました。望外の抜擢(ばってき)に、気持ちの昂(たか)ぶりが止まりませぬ」
 弟の隣には、頰を紅潮させた原昌胤が控えている。
「陣馬(じんば)奉行の役目をこなすには、合戦の有様が最もよく見渡せる場所に立たなければならぬ。つまり、大局と急所を同時に捉える眼が必要となる。加藤(かとう)は武者奉行でもあり、側で補佐をすれば、多くのことを学べるはずだ。焦らず、しっかりとこなすことだ」
「はい、承知いたしました」
「信繁、このあと、わが室で少し話せるか?」
「はい」
「さようか。ならば、信房と昌胤も同席せよ。そなたらにも話を聞いてもらいたい」
 晴信の言葉に、二人は直立不動になる。
「はっ! 身に余る光栄にござりまする」
 教来石信房が頭を下げた。
「……お、同じく」
 最も若い原昌胤も緊張した面持ちで答える。
 晴信は三人を連れて室へ入り、話を始めた。
「余が惣領(そうりょう)となってから七年あまり、当家が諏訪(すわ)を治め、信濃(しなの)制覇に向けて発進できたのは、やはり、板垣(いたがき)をはじめとする重臣たちの働き以外の何物でもない。自嘲を込めて申すならば、余は先代の有能な家臣たちが揃って仕えてくれることになった果報者に過ぎず、これまではそのことをわかっていながら甘えてきた」
 真剣な面持ちで語る主君を、若い家臣たちは瞬きもせずに見つめている。
「されど、今後はさような甘えを続けるわけにいかぬ。こたび、加賀守(かがのかみ)が病いに倒れたことで痛感いたした。いつまでも老骨に鞭打つ重臣たちの戦(いくさ)働きに頼り切っていてはならぬ、と。……あの板垣にしても、すでに還暦を迎えているのだ。われら若き者がもっと踏ん張らねばならぬ時がきた」
 晴信は熱を込めて言い切る。
「信房、そなたが近習頭(きんじゅうがしら)として雑事を捌(さば)いてくれることで、余は確かに煩(わずら)いなく政務に専心できる。されど、いつまでもそなたほどの者に身辺の世話をしてもらうわけにはいかぬ。それは当家にとって大きな損失だからである。それゆえ、こたびの合戦から侍大将として働いてもらう。まずは、余の馬廻(うままわり)衆から五十騎を預けるゆえ、本陣周りの遊軍となってくれ」
「御屋形(おやかた)様……」
 教来石信房が眼を見開く。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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