よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)9

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  三十七

 武田勢が長和を出立する数日前のことだった。
 小県の砥石城を発した早馬が、埴科(はにしな)郡にある葛尾城へ駆け込む。
 伝令が「武田勢集結」の一報を家宰(かさい)の屋代(やしろ)正重(まさしげ)に伝え、村上義清(よしきよ)と数名の重臣が集まった。
「武田の小倅が動いたと? 兵数はどのくらいだ?」
 剛毛に覆われた髭面(ひげづら)の口元を歪(ゆが)め、村上義清が訊く。
「長和の長窪城に五千ぐらいの兵が集まっているとのこと」
 屋代正重が報告する。
「ふん、五千か。われらも甘く見られたものだ。されど、この時期に小県へ出陣してくるとは、間抜虎(まぬけとら)の小倅はやはり間抜であったか」
 村上義清が嗤笑(ししょう)する。
「武田晴信は佐久(さく)で手際よく二つの城を落とし、増長しているのでありましょう」
 義清の傅役である出浦(いでうら)国則(くにのり)が言った。
「増長か。それにしても、少し聡(さと)ければ春先まで出陣を待つと思うがな。まあ、われらとしては、願ってもないがな。こっぴどいめに遭わせ、二度と小県に手出しできぬようにしてくれるわ」
「されど、殿。用心にこしたことはありませぬ。いかがいたしまするか?」
 屋代正重が訊く。
「早晩、武田の小倅が動いてくることはわかっていた。余がこれまで手をこまぬき、無策でいたと思うておるか、正重」
 義清が家宰を睨む。
「……いいえ、滅相もござりませぬ。して、殿。砥石城へ入られまするか?」
「砥石城な。余があの城に入ってどうする。あれは、よい餌だ。砥石城を使うて武田の小倅を罠に嵌(は)めてくれようではないか」
 不敵な笑みを浮かべ、村上義清が言い放つ。
「まずは、あの城に余が入ったという風聞を広めよ」  
「……承知いたしました」
「次に、砥石城の周りに残る城や砦に当家の旗幟(はたのぼり)を立て、篝火(かがりび)を絶やすな」
「されど、そこに兵を割くのは……」
「誰がわれらの兵を入れると申した」
「えっ!?」
「さような役目は寝返った海野の残党にさせればよい。それと、あの者たちだ」
 村上義清は口唇の端を歪め、邪悪な面持ちで笑う。
「あの者たちとは?」
 屋代正重が小首を傾(かし)げながら聞き返した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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