よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)9

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 具足始めの評定が終わってから順調に戦支度が進められる。しかし、月末に向けて少しずつ天候の具合が変わり始めた。
 雲行きが妖しくなり、曇天が続き始め、一気に冷え込んでくる。晴信は一月の晦日(みそか)に諏訪を出立し、長和(ながわ)の長窪(ながくぼ)城へ入ったが、その頃には粉雪がちらつくようになった。
 そして、長窪城から大門(だいもん)峠を越える前に、出陣した重臣たちだけで軍(いくさ)評定が行われた。
 その席の冒頭で、禰津(ねづ)元直(もとなお)が発言を願い出る。
「……懼(おそ)れながら、御屋形様にお願いしたきことがござりまする。よろしいでしょうか?」
 それを聞いた晴信と信方(のぶかた)が顔を見合わせた。
 普段は滅多に評定の口火を切ったりしない漢(おとこ)が発言を求めたからである。
「もちろん、かまわぬが」
 少し違和感を覚えながらも、晴信は続きを促す。
「有り難き仕合わせにござりまする。では、申し上げますが、この席に真田(さなだ)幸綱(ゆきつな)をお加えいただけませぬでしょうか?」
 禰津元直は武田家の傘下に入ることを希望している盟友の名を上げた。
「真田……小県(ちいさがた)出の者か……」
 晴信が呟く。
「かの漢ほど小県の地勢を知り尽くした者はありませぬ。城々の仕立てから季節ごとの天気に至るまで熟知しており、そうした智慧を使わぬのは、あまりに勿体のうござりまする。真田はわが室に控えさせておりますゆえ、すぐに呼ぶことができまする」
「さようか。ならば……」
 承諾しかけた晴信を、原虎胤が止める。 
「お待ちくださりませ、御屋形様。この評定は重臣だけで行われる決まりであり、他の家臣には聞かせられぬ話も出まする。真田はまだ正式に傘下へ入ることが決まったわけではなく、新参とも言えぬ立場。しかも、ついこの間まで、敵方にいた者ではありませぬか。いくら小県の地勢に詳しくとも、当家の内密な話が外へ漏れる懸念を拭いされませぬ」
 そう言ってから、鬼美濃(おにみの)は禰津元直を睨(にら)む。
「……美濃守殿のご心配は、もっともと存じまする。されど、真田は義に篤(あつ)く、頑固な漢にござりまする。それゆえ、関東管領(かんれい)に付いた海野(うんの)殿をなかなか見限れなかったのだと思いまする。さような漢が武田家に参じると決めた以上、敵方と通じることは断じてないと、それがしは信じておりまする」
 禰津元直はきっぱりと答えた。
「禰津殿、そなたは同じ滋野(しげの)一統の出自ゆえ、かの者を庇(かば)いたいのやもしれぬが、われらはまだ信用に足る何物も得ておらぬ。武功を含めてな。小県の地勢ならば、ここにいる跡部(あとべ)が詳細に諜知(ちょうち)を重ねておるゆえ、それで充分だと思うがな。とにかく、真田とやらが、この席に列するのは早すぎる」
 虎胤はあくまでも己の考えを譲らない。
「鬼美濃、まあ、さように目くじらを立てなくてもよいではないか」
 晴信が笑顔で割って入る。
「この評定を重く見ているそなたの考えはよくわかるが、余は真田の話を聞いてみたい気もする。なにせ生まれ育った地のことだからな。こうしてみてはどうか。評定に列するのではなく、あくまで冒頭で真田幸綱の見解を聞き、その後は退席してもらい、通常の重臣評定を行うということでどうか」
「……御屋形様がそこまで仰せになられるならば、それがしも異存を唱えるつもりはありませぬ」
 原虎胤は渋々ながら承諾した。
「それでは、真田を呼んでくれ」
 晴信に命じられ、禰津元直が真田幸綱を迎えにいく。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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