よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)10

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  三十七(承前) 

「武田に深い恨みを持ち、命を賭して復讐したいと願っている者どもがおるではないか」
「おお、なるほど……」
「ただ情けで飯を喰わせていたわけではない。こうしたこともあろうと思い、飼っておいたまでよ」
 村上(むらかみ)義清(よしきよ)は口唇の端を歪(ゆが)め、邪悪な面持ちで笑う。
「殿、皆が狐につままれたような顔をしておりまする。勿体(もったい)ぶらずに、こたびの策の全貌をお聞かせくださりませ。どうか、お願いいたしまする」
 屋代(やしろ)正重(まさしげ)の懇願に、村上義清が答える。
「ならば、小県(ちいさがた)の地図を持て。それを見ながら説明してやろう」
 主君の言葉を聞き、家宰の嫡男である屋代正国(まさくに)が素早く支度にかかった。
 広げられた地図を家臣たちが覗(のぞ)き込む中、村上義清が己の描く策を語り始める。
「この時候に戦(いくさ)を構えたところを見れば、武田の小倅(こせがれ)が小県の地勢に疎いことは明白だ。だいたい、真夏でも寄手を拒む砥石(といし)城を、真冬に攻めようという魂胆が笑止千万。何もわかっておらぬ証左よ。特別な備えなどせずとも、砥石城は落ちぬ。われらはその分の兵を他のところに割けばよい。こたびは籠城戦など行わぬ。この小県全体をわれらの陣と見立て、武田の者どもの鼻面を摑(つか)んで散々に振り回してくれるわ」
 主君の言葉に、再び屋代正重が小首を傾(かし)げる。
「小県全体が……われらの陣……」
「よいか、地図をよく見よ。長窪(ながくぼ)城から来る武田は、まず千曲川(ちくまがわ)沿いの大屋(おおや)へ出る。そこから千曲川と神川(かんがわ)を渡り、何とか国分寺(こくぶんじ)を押さえようとするであろう。この寒さでは国分寺の如(ごと)き建屋を本陣としなければ凌(しの)げぬからな。間違いなく、緒戦はここになる」
 義清は扇の先で地図を叩(たた)く。
「では、われらの先陣を国分寺に入れ、敵を渡河させぬよう防げばよいと」
 屋代正重が答える。
「待て、待て。誰が国分寺で踏ん張れと申した」
「えっ!?」
「もちろん、神川を渡ろうとする敵兵は格好の的ゆえ、飛道具で迎え撃ってやればよい。されど、国分寺を死守する必要などない。敵が力攻めに出たならば、適当なところで兵を退く。要は自兵の損害を最小限に抑え、敵兵にだけ被害を与えるのが、こたびの戦い方だ。敵は緒戦での国分寺奪取が死活の分かれ目となるゆえ、どれほどの損害を出してでも奪い取ろうとするであろう。それを逆手に取ってやる。われらとしては国分寺を奪われても、さして痛手ではない。かえって敵の本陣が明らかとなり、その後の手が打ちやすくなるだけだ」
「はぁ……。されど、退いた兵は、何処(いずこ)へ入れまするか?」
「われらが先陣を構える場所など、いくらでもあるではないか。まずは、ここだ」
 義清が扇の先で示したのは、国分寺から北西に半里(二`)ほど離れた科野(しなの)総社だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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