「御屋形様、これから若を起こしにいきますので、どうか館にて、お待ちいただけませぬか。すぐにお連れいたしますゆえ、存分に薫陶をお授けくだされませ。されど、三条の御方様は化粧など、お支度に時がかかるやもしれませぬので、その点に関しましては、どうかご堪忍を」 そう申し出た傅役(もりやく)を、信虎は不機嫌そうに見つめる。 「おい、信房! ぼさっと突っ立っておるでない! すぐに若を起こしに行かぬか!」 信方は立ち竦(すく)んでいる教来石信房に命じ、それとなく目配せを送った。 それから、侍女頭の方に向き直る。 「常磐殿もかような処(ところ)でのろのろしておらず、三条の御方様のお支度に走りなされ。武門の漢(おとこ)は皆、せっかちゆえ、おっとりと優雅に構えられても困るのだ。戦(いくさ)とならば、夜中に起きねばならぬこともある。三条の御方様にも、今から慣れてもらわねば。なるべく、御屋形様をお待たせいたさぬよう、きびきびと動きなされ!」 「……申し訳ござりませぬ。すぐに参りまする」 意図を察した常磐は深々と頭を下げた後、小走りで屋敷の中へ入っていった。 信方は主君の怒りを己に向けさせようとして、他の者をあえて乱暴に遠ざける策に出た。 「御屋形様、まことに気が利かぬ者ばかりで申し訳ござりませぬ。この板垣めがすぐに威儀を糺(ただ)しますので、どうか館の方でお待ちを」 慇懃(いんぎん)な笑みを浮かべ、小さく頭を下げる。 それを見た信虎が小さく鼻を鳴らす。 「ふん、すっかり興醒めしたわ。戻るぞ、虎重。酔いも冷めてしまったゆえ、寝所に酒を持て」 「はっ! 承知いたしました」 「駿河、あまり出すぎた真似をいたすな。あざとさが鼻につく」 吐き捨てるように言った信虎は、急に大股でその場を去る。 「……申し訳ござりませぬ」 信方は主君の背中に向かって深々と頭を下げた。 信虎の姿が見えなくなったことを確かめてから、屋敷の中へ入る。思った通り、玄関先に常磐と教来石信房の姿があった。 「よかった。二人とも、わが意を汲み、ここで控えていてくれたか」 「板垣殿、ありがとうござりまする。お執りなしいただかなければ、どうなっていたことやら……」 常磐が蒼白な顔で頭を下げる。 「いや、そなたこそ、よう踏み止まった。おそらく、御屋形様が座敷に上がっておれば、若や三条の御方様も加わらぬわけにはまいらず、収拾がつかなくなっていたであろう。いったい、どうなっていたか、考えるだけでも怖ろしい。女人のそなたが応対したゆえ、御屋形様も加減なされたのだ」