連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)8 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「御屋形様、これから若を起こしにいきますので、どうか館にて、お待ちいただけませぬか。すぐにお連れいたしますゆえ、存分に薫陶をお授けくだされませ。されど、三条の御方様は化粧など、お支度に時がかかるやもしれませぬので、その点に関しましては、どうかご堪忍を」
 そう申し出た傅役(もりやく)を、信虎は不機嫌そうに見つめる。
「おい、信房! ぼさっと突っ立っておるでない! すぐに若を起こしに行かぬか!」
 信方は立ち竦(すく)んでいる教来石信房に命じ、それとなく目配せを送った。
 それから、侍女頭の方に向き直る。
「常磐殿もかような処(ところ)でのろのろしておらず、三条の御方様のお支度に走りなされ。武門の漢(おとこ)は皆、せっかちゆえ、おっとりと優雅に構えられても困るのだ。戦(いくさ)とならば、夜中に起きねばならぬこともある。三条の御方様にも、今から慣れてもらわねば。なるべく、御屋形様をお待たせいたさぬよう、きびきびと動きなされ!」
「……申し訳ござりませぬ。すぐに参りまする」
 意図を察した常磐は深々と頭を下げた後、小走りで屋敷の中へ入っていった。
 信方は主君の怒りを己に向けさせようとして、他の者をあえて乱暴に遠ざける策に出た。
「御屋形様、まことに気が利かぬ者ばかりで申し訳ござりませぬ。この板垣めがすぐに威儀を糺(ただ)しますので、どうか館の方でお待ちを」
 慇懃(いんぎん)な笑みを浮かべ、小さく頭を下げる。
 それを見た信虎が小さく鼻を鳴らす。
「ふん、すっかり興醒めしたわ。戻るぞ、虎重。酔いも冷めてしまったゆえ、寝所に酒を持て」
「はっ! 承知いたしました」
「駿河、あまり出すぎた真似をいたすな。あざとさが鼻につく」
 吐き捨てるように言った信虎は、急に大股でその場を去る。
「……申し訳ござりませぬ」
 信方は主君の背中に向かって深々と頭を下げた。
 信虎の姿が見えなくなったことを確かめてから、屋敷の中へ入る。思った通り、玄関先に常磐と教来石信房の姿があった。
「よかった。二人とも、わが意を汲み、ここで控えていてくれたか」
「板垣殿、ありがとうござりまする。お執りなしいただかなければ、どうなっていたことやら……」
 常磐が蒼白な顔で頭を下げる。
「いや、そなたこそ、よう踏み止まった。おそらく、御屋形様が座敷に上がっておれば、若や三条の御方様も加わらぬわけにはまいらず、収拾がつかなくなっていたであろう。いったい、どうなっていたか、考えるだけでも怖ろしい。女人のそなたが応対したゆえ、御屋形様も加減なされたのだ」



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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