よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

  二十三(承前)

 翌日、武田勢の先陣が御射山(みさやま)から青柳(あおやぎ)へ押し出し、不気味な静けさの中、諏訪(すわ)勢との睨(にら)み合いが続く。
 陽が暮れ、篝火(かがりび)が焚(た)かれた矢崎原(やざきはら)の陣中には、苛立(いらだ)つ諏訪頼重(よりしげ)の姿があった。
「武田めが。出産祝いの使者もよこさぬで、兵を押し出してくるとは何事か!」
「前(さき)の小笠原(おがさわら)出兵への報復というつもりなのでありましょう。小笠原長時(ながとき)殿には援軍を送ってくれるよう、早馬を飛ばしてありまするゆえ、到着まで何とか持ち堪(こた)えましょう」
 側にいた矢嶋(やじま)満清(みつきよ)が答える。
 この漢(おとこ)は諏訪上社の禰宜(ねぎ)職であったが、神長(かんのおさ)の守矢(もりや)頼真(よりざね)と反目しており、実権を握るために諏訪頼重に阿(おもね)っていた。
 また諏訪西方(にしかた)衆の頭(かしら)でもあり、小笠原長時との和睦や内通を頼重に持ちかけた張本(ちょうほん)も、この矢嶋満清だった。 
「義清(よしきよ)殿にも援軍を願った方がよかったであろうか」
 諏訪頼重は密かに誼(よしみ)を通じている北信濃(きたしなの)の村上(むらかみ)義清の名を持ち出す。
「味方は多いに越したことはありませぬ。今からでも遅くはありませぬゆえ、早馬を飛ばしてはいかがでありましょう」
「さようか。では、手配りしておく」
「ところで頼重殿、御寮人(ごりょうにん)様と御子はどちらにおられまするか?」
「御方ならば、茶臼山(ちゃうすやま)の本城にいるが」
「念のため呼び寄せておいた方がよかろうかと」
「なにゆえか?」
「いざとならば、武田との交渉に使えるのではありませぬか」
「御方と寅王丸(とらおうまる)をか」
 頼重が姑息(こそく)な策を提案した矢嶋満清を睨みつける。
「……いえ、あくまでも念のためということで。御寮人様が一緒だとわかれば、武田も手荒な真似はせぬのではありませぬか」
「それはそうかもしれぬが……」
 諏訪頼重は不機嫌そうな顔でそっぽを向く。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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