よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「守矢殿、妹の件、かたじけなし」
 晴信が礼を言い、頭を下げる。
「とんでもない。勿体(もったい)のう御言葉にござりまする。頭をお上げくださりませ。こちらこそ、お世話になりまする」
 守矢頼真が深々と頭を下げた。
「おかげで、この戦(いくさ)に際し、何の気懸かりもなくなり申した」
「これから、どうなされまするか」
「まずは頼重殿が籠もった桑原城を囲みまする。その上で、茶臼山の本城を先に落とすつもりにござる」
「さようにござりまするか。では、それがしも本城へ連れて行っていただけませぬか」
「それは構わぬが……」
「茶臼山には大した者どもは残っておりませぬゆえ、それがしが城を明け渡すよう説得いたしとうござりまする。無用な血を流さぬように」
 守矢頼真は開城の説得役を申し出た。
「それは重ねて助かり申す。こちらも無用な城攻めは避けたかったところだ。ご同行をお願いいたす」
 晴信は快く守矢頼真の申し出を受け入れた。
 それから、信方の仲介により、上原城下で馳せ参じた高遠頼継との面会が行われる。
「高遠信濃守、頼継にござりまする。こたびは陣の端にお加えいただき、まことに恐悦の至りにござりまする。今後とも、お見知りおきのほど、よろしくお願いいたしまする」
「武田大膳大夫(だいぜんのだいぶ)、晴信にござりまする。こたびの与力、まことにかたじけなし。末永く、よろしくお願いいたしまする」
 晴信は丁寧に頭を下げながらも、毅然(きぜん)とした態度で相対していた。
 挨拶もそこそこに両軍は上原城を後にし、両軍が揃って桑原城を包囲する。この城は支城に過ぎず、小山の尾根に沿って本丸や二の丸が築かれ、土塁や空堀などの簡素な防備の構えがあるだけだった。
 守りの堅さならば諏訪湖畔にある茶臼山本城の方が優れていたが、諏訪頼重は挟撃に動顛(どうてん)し、ここに籠城したようだ。
 晴信は山の麓に本陣を置き、各所の使番(つかいばん)から報告を受ける。
「ただいま、原(はら)虎胤(とらたね)殿と飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)殿の隊が茶臼山本城を囲みましてござりまする。岡谷(おかや)から藤澤(ふじさわ)頼親(よりちか)殿の一軍も駆け付け、城の包囲に加わっておりまする」
「さようか。して、守矢殿は」
 晴信が訊く。
「これより、城方の者に面会を申し入れるそうにござりまする」
「城の守将は誰だ?」
「諏訪西方衆の花岡(はなおか)忠常(ただつね)という者だそうにござりまする。守矢殿もよくご存じの方ゆえ、何とか説得できそうだと申しておりました」
「わかった。引き続き、状況が動き次第、報告してくれ」
「御意!」
 使番が走り去ったところへ、跡部(あとべ)信秋(のぶあき)がやって来る。
「御屋形(おやかた)様、下社の金刺(かなさし)堯存(たかのぶ)殿がお見えになりました。ご挨拶をしたいそうにござりまする」
「通してくれ」
 晴信は幔幕裡(まんまくうら)の床几(しょうぎ)に腰掛けたまま待った。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number