よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「うぬ、わかった。では、明朝、こちらから使者を送り、頼重殿に和談を申し入れよう。花岡、そなたも同行してくれ」
 晴信の言葉に、花岡忠常は声を詰まらせる。 
「……あ、ありがとうござりまする」
「桑原城への使者は、美濃守(みののかみ)と加賀守に頼む」
「御意!」
 原昌俊と鬼美濃が同時に声を発し、頭を下げた。
 明けて七月四日の早朝、武田からの使者が花岡忠常を伴い、桑原城へ向かった。
 原虎胤が城門の裡に向かって大音声を発する。
「頼もう! それがしは武田家家臣、原美濃守、虎胤と申す! 花岡殿を連れ、諏訪頼重殿と和談に参ったゆえ、取次を願いたい!」
 少し間を置いてから、番兵と思(おぼ)しき者の声が聞こえてくる。
「……和談と申されましたか?」
「さようだ。武田晴信の名代として、頼重殿と直にお話をしたい! 至急、お取次願いたい」
「しょ、少々、お待ちを……」
 どうやら番兵が取次に走ったらしい。
 しばらくして、城門の裡から新たな声が響いてくる。 
「それがしは諏訪頼重が家臣、有賀(ありが)泰時(やすとき)と申す。原美濃守殿と聞きましたが、まことに和談に参られたましたのか?」
「ああ、さようだ。されど、使者はそれがし一人ではなく、武田家総奉行の原加賀守も一緒だ。交渉は、かの者が行う。それがしはただの護衛じゃ」
「……本城にいた花岡忠常も一緒だと聞きましたが?」
 有賀泰時の問いに、花岡忠常が進んで声を発する。 
「有賀殿、花岡だ。一緒に話をし、頼重殿をご説得するために同行いたしました」
「花岡殿……。本城はどうなった?」
「……茶臼山の本城は……開城いたした。武田家には下社や上伊那の軍勢まで加わっていたため、われらはとても籠城を続けられる状況ではなく、致し方なく」
「さようか……」
 少し逡巡(しゅんじゅん)するような間があってから、有賀泰時が訊く。
「原美濃守殿、何人で参られましたか?」
「先ほど申した二人に加え、十人ほどの供だ。されど、そちらが不安ならば、城内に入るのは、それがしと原加賀守の二人、それに花岡殿だけで構わぬ。ただし、得物(えもの)は携えさせてもらうがな」
 原虎胤の剛胆な申し出に、一瞬、有賀泰時が絶句する。
 しかし、すぐに承諾の返答をした。
「……では、これから城門の木戸を開けますゆえ、御二方でお願いいたしまする」
 有賀泰時の命令で城門の脇にある木戸が開かれた。
 鎧(よろい)に身を固め、佩刀(はいとう)した武田の使者二人と丸腰の花岡忠常が城内に入り、本丸の広間へと通される。
 そこには蒼白の面持ちとなった諏訪頼重と矢嶋満清が待っていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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