よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)8

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「……諏訪大社大祝の諏訪頼高にござりまする。よろしく、お願いいたしまする」
 緊張した面持ちで頼高が頭を下げる。
 この弟は今年、齢(よわい)十五になったばかりだった。
「では、後ほど伺いますゆえ、お支度をお願いいたしまする。さて、大祝殿、参りましょうか」
 原昌俊が床几から立ち上がり、諏訪頼高に同行を促す。
 原虎胤と花岡忠常がその後に続き、桑原城を出た四人は供の者と合流し、麓の武田本陣へ向かった。
「鬼美濃、そなたは大祝殿の護衛をしてくれ」
 幕内へ入ってから、原昌俊が命じる。
「護衛?」
 虎胤が不思議そうな顔で聞き返す。
「さよう。周囲には、武田以外の者たちもいる。何があるかわからぬゆえ、大事な御客人を守ってくれ。家中一の武辺者、そなたが側にいれば、不審な者も近づくまい」
 昌俊は諏訪頼高に聞こえるよう声を張る。
 あえて、見張りと言わなかったのは、これ以上、人質を不安にさせないためだった。
「ああ、なるほど。承知いたしました。大祝殿は何があっても、それがしがお守りいたしまする」
 鬼美濃も真意を悟り、大声で答えた。
 それでも、諏訪頼高は不安そうに花岡忠常を見るが、「心配召されるな」と言いたげな顔で頷いてみせた。
「では、それがしは御屋形様への報告を済ましてくる」
 そう言った原昌俊に、鬼美濃が近寄って耳打ちする。
「さきほどは驚きましたぞ、加賀守殿」
「何がだ?」
「そなたがあれほど容赦のない御方だとは思うておりませなんだ。涼しい顔であのような脅しをかけられるとは、まことに畏れ入りました。諏訪の者全員、肝を冷やし、幽霊の如き顔つきになっておりましたぞ」
「誉(ほ)めているようには聞こえぬぞ、鬼美濃」
「充分に誉めておりまする。それがしの心胆を寒からしめるほどの迫力でありましたぞ。御屋形様には、すべてを申し上げるおつもりか?」
「そうだな。勝手に言ってしまったこともあるゆえ、正直にご報告し、御裁可を仰ぐつもりだ」
「さすがは加賀守殿。では、よろしくお願いいたしまする」
 頭を下げてから、原虎胤は諏訪頼高と花岡忠常を自陣に連れて行った。
 原昌俊はそのまま晴信が待つ帟(ひらはり)へと向かう。
「お待たせいたしました、御屋形様」
「おお、加賀守。首尾はどうであった?」
 晴信が待ちかねたように立ち上がって訊く。
「頼重殿は開城すると決断なされました。和議成立の証として、弟の頼高殿に来ていただきました。一刻後には、桑原城を引き取るという約束になっておりまする」
「さようか。よくやってくれた」
 ほっとした表情で、晴信は床几に腰掛け直した。
 隣の信方も安堵したように小刻みに頷く。
「では、先方との話を詳しくご報告させていただきまする」
 原昌俊も床几に腰を下ろし、詳細を話し始めた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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