よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   六十九

 早朝の川中島(かわなかじま)に、再び武田勢の蹄音(ていおん)が鳴り響く。
 永禄(えいろく)四年(一五六一)八月二十九日、信玄自らが膠着(こうちゃく)する戦局を動かした。
 茶臼山(ちゃうすやま)の麓から先陣を担う武田信繁(のぶしげ)の隊三千余と飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)の赤備(あかぞなえ)隊三千余が東へと駆け出す。
 布施五明(ふせごみょう)の里から千曲川(ちくまがわ)の西岸、雨宮(あめのみや)と屋代(やしろ)の渡しの二カ所へまっすぐ向かっていた。
 この二つを封鎖すれば、妻女山(さいじょさん)の越後(えちご)勢は完全に母国への帰路を失う。
 敵が孤立を恐れても、渡河があるために囲みを強行突破するのは非常に難しい。
 さらに総大将の下命を受け、真田(さなだ)幸隆(ゆきたか)の中備(なかぞなえ)隊と山本(やまもと)菅助(かんすけ)の足軽隊、約五千の兵が犀川(さいがわ)の方面へ派遣され、小市(こいち)と丹波島(たんばじま)の渡しが封鎖される。これは善光寺(ぜんこうじ)脇に陣取っている越後勢の後詰(ごづめ)五千の動きを牽制(けんせい)するものだった。
 この位置に陣を張れば、妻女山の越後勢本隊と善光寺の後詰は完全に分断されることになる。
 信玄は嫡男の武田義信(よしのぶ)、末弟の武田信廉(のぶかど)が担う旗本衆を布施五明に布陣させ、千曲川と犀川のどちらへでも援護できるように待機させる。
 そして、本隊だけが茶臼山に残り、この本陣を馬場(ばば)信房(のぶふさ)と百足(むかで)衆の護衛隊が守っていた。
 これらの動きは払暁から総軍で一斉に始められ、一刻半(三時間)ほどですべての配置が完了する。兵たちの動きは実に迅速で一切の無駄がなく、陣替えの隙を突く間もない。
 信玄はそれらの動きを山頂から見つめていた。
 ――善光寺に待機している後詰からの補給も途絶え、これで兵粮(ひょうろう)攻めの形となったぞ。さて、景虎(かげとら)。うぬは、いかように動く?
 しかし、その問いとは裏腹に、信玄は長期にわたる兵粮攻めなど行う気はなかった。
 相手の動きを封じただけで、まだ自軍に交戦することを許していない。
 長らく旱魃(かんばつ)が続いているせいで千曲川と犀川の水位は極端に低く、騎馬や足軽は渡河できそうだったが、あえて自軍から戦いを仕掛けることを禁じた。
 巧みに布陣を変化させ、兵粮攻めの形と見せかけながら、相手の反応を確かめる策に出たのである。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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