よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 しかし、いくら前途が多難であろうとも、百足衆に引き返す道はない。真田信綱と昌輝は歯を食いしばり、闇を切り裂きながら先へと進んだ。
 ようやく鏡台山の頂きに着いた頃はすでに日が変わり、九月九日の卯(う)の刻(午前五時)になっていた。
 真田兄弟はここで百足衆の後続と父の幸隆が率いる真田衆を待つ。
 午(うま)の刻(正午)に百足衆と真田衆が揃ってからは、飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)の率いる赤備衆が到着するまで山中に潜んで仮眠を取った。
 赤備衆は先行隊の辿った経路を登攀し、四刻(八時間)ほど遅れて鏡台山へ到着する。
 飯富虎昌は合流した真田幸隆、馬場(ばば)信房(のぶふさ)と共に待機し、そこで松代西条(まつしろにしじょう)から登ってくる最後の奇襲隊、香坂(こうさか)昌信(まさのぶ)の軍勢と合流する手筈(てはず)になっていた。
 しかし、この夜、山中に潜んだ武田奇襲隊に異変が起きる。
 事前の決事(きめごと)では、ここに一万二千の奇襲隊が揃ってから、それぞれが次の行動に移る予定になっていた。そうしなければ、三千ずつの四隊が奇襲の機を合わせて同時に攻めかかることができないからである。
 しかし、待てど暮らせど、香坂昌信の隊が現れない。
 そのうちに、どこからともなく湧いてきた濃霧が山頂に広がり始めた。
「いったい、昌信は何をやっておるのだ」
 飯富虎昌は憮然(ぶぜん)とした面持ちで唸(うな)る。
「この辺りの地勢に最も詳しい昌信が遅参するとは、何か起こったのではありますまいか」
 馬場信房が不安げな表情で呟く。
「あ奴は一番短い道筋をまっすぐに登ってくるだけであろうが! 何が起こったとて、刻限通りに到着できぬはずはあるまい」
 苛立(いらだ)った声を出す虎昌を、真田幸隆がなだめる。
「まあまあ、兵部殿。さように怒らず、もう少し待ちましょう。まだ、少しばかりの猶予はありまする」
「一徳斎(いっとくさい)殿、そなたらはここから妻女山まで尾根の一本道を下るだけだからよいが、われらは鏡台山の頂まで戻り、そこから三滝(みたき)とやらを抜けて倉科の里まで下りねばならぬ。今後の道筋も定かではなく、それなりに時を要する。うかうかしている暇はないのだ」
 機嫌の直らない飯富虎昌を見て、二人の将は顔を見合わせて小さく肩をすぼめた。
 そこへ百足衆の真田信綱と昌輝が駆け寄る。父の幸隆に近寄り、険しい表情の信綱が何事かを耳打ちした。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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