よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「本日の午餉(ひるげ)の刻とこの夕餉に、海津城の周辺から尋常ならざる炊煙が上がった。おそらく、兵たちに持たせる強飯(こわめし)でも炊いていたのであろう。すなわち、それが開戦の烽火である。いよいよ、晴信も肚(はら)を括(くく)ったようだ」
 上杉政虎はこれまで確かめ続けてきた敵陣の炊煙を開戦の烽火に見立てていた。
「奇襲の兵に持たせる兵粮(ひょうろう)にござりまするか。なるほど、それが開戦の合図であるか」
 宇佐美(うさみ)定満(さだみつ)が膝を打つ。
「いつもの倍以上の炊煙が上がっていたところを見れば、並の奇襲ではあるまい。軍勢を真っ二つに割ってくる肚であろう」
「御屋形様は、晴信が一万もの兵を後方の山へ回してくるとお考えにござりまするか?」
 宇佐美定満が驚いた表情で訊く。
「さようだ、宇佐美。小勢での奇襲は陽動にもならぬとわかっておるゆえ、力攻めのきく頭数を揃える気なのであろう。余が晴信でも理詰めでならば、さように算ずるゆえ、間違いあるまい」
「なれば、われらが下山いたす時も間もなくにござりまするな」
 嬉しそうに言った老将を見つめ、上杉政虎は不敵な笑みを浮かべて頷(うなず)く。
「さよう。われらの勝利は目前にある」
 待ちわびた総大将の言葉を聞き、在陣の疲れが滲(にじ)み始めていた将たちの顔にも安堵(あんど)の花が咲く。
「皆、ここまでよく辛抱してくれた。されど、ここまでの忍従は、必ずや報われる。やっと勝機の到来が見えてきたゆえ、それを逃さず、われらは乾坤一擲(けんこんいってき)の戦いを仕掛ける」
 政虎の言葉を聞き、将たちの両眼にひときわ強い光が浮かび、全身に覇気が戻る。
「御屋形様、下山と渡河の機をいかように決めまするか?」
 家宰(かさい)の直江(なおえ)景綱(かげつな)が訊く。
「敵が一万もの兵を目立たぬように山中へ潜ませるとあらば、一夜にしてできることではないゆえ、少なくとも今夜と明日の夜にわたって登攀(とうはん)を行うつもりであろう。それゆえ、ここへの奇襲は、明後日の丑(うし)の刻(午前二時)頃と読んでいる。もちろん、今宵から戦支度(いくさじたく)を解かず、全陣にて不寝番を立て、炊煙が目立たぬように兵に持たせる食を用意せよ。余は尾根を伝ってくる敵を相手にするつもりはないゆえ、ぎりぎりの機で下山いたし、そのままわれらを待ち構えている晴信の本隊と一戦を交える」
 どうやら武田勢が自軍と同等の兵数で奇襲を仕掛けてくると、政虎は確信しているようだ。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number