よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「なんであるか、典厩」
「……いいえ、何でもありませぬ」
 信繁は何かを言おうとしたが、咄嗟(とっさ)に言葉を呑み込む。
「では、これにて評定を終わる」
 信玄の一言で熱を帯びた軍議が終わる。
 ――万が一、敵に奇襲をすかされた時は、いかがいたしまするか?
 信繁はそのように訊ねようとしていたのである。
 しかし、それを止めた。
 ――兄上が万が一の事態を考えていないなどということはあり得ぬ。それを口にせぬのは、八千の兵でも越後勢のすべてを捌(さば)ける自信がおありになるからなのだ。相手が無傷の一万二千であったとしても、野戦ならばその数で互角に戦えるとお考えになっておられる。ならば、いまさら、何の愚問であるか。
 武田の先陣大将は、己にそう言い聞かせながら評定の場を後にする。
 こうして、武田勢の奇襲が決まった。
 翌日の夕刻、八幡原に設(しつら)えられた赤備衆の陣に人垣ができ、その輪の真ん中に山本菅助が立っていた。
 右腰から鎧通(よろいとお)しの短刀を抜き、正面に立っていた数名の足軽に言い放つ。
「よいか、これを使うのが菅助流なんじゃ」
 そう言いながら、まな板の上に並べられた地香坊(じこぼう)をぶつ切りにし始める。
 地香坊とは、唐松の林に群生する「花いぐち茸(たけ)」のことで、大きく開いた赤茶色の傘と身のしまった軸が少しぬめりをもっている。これを汁や鍋物に使うと独特の風味を醸し出すため、地の者たちは松茸にも勝る秋の美味として、この地香坊を重宝していた。
 ちょうど今頃が収穫の時期で、日当たりの良い唐松の根本を探せば、以外と簡単に見つけることができる。食べられるものは何でも兵食の足しにする野戦陣では、こうした茸や山菜が滋養を摂るために重要な役割を果たしていた。
 菅助は切り終わった花いぐち茸を火にかけた鍋に放り込む。すでに煮干しで出汁(だし)が取られ、他の山菜や里芋が入れられている。
「ほれ、そなたらも同じ要領でやってみよ」
 隻眼の老将に促され、数名の足軽が馬手差の短刀を抜き、見よう見まねで地香坊を切り始める。この者たちは陣中の炊事を担う台所番の夫丸(ぶまる)役であった。
「さて、次は味付けだが、これを使うのが極めつけ。他には何もいらぬ」
 菅助が味噌樽の蓋を開けると、周囲に食欲をそそる強烈な匂いが広がる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number