よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 大広間は静まりかえり、将たちの脳裡に様々な不安がよぎり始めていた。
 それを代弁するように信繁が言う。
「……兄上、景虎がわざとわれらの奇襲を誘っているのだとお考えならば、この策そのものが成り立たぬということになってしまいまする。また、評定を振り出しに戻さねばなりませぬ」
「そうぼやくな、典厩。確かに、この策は敵が背後の連峰にある隠道に気づいておらぬという前提に基づいている。されど、それは敵が奇襲を待ち受けておらぬということと同義ではなかろう。これだけの間、景虎はあの場所を動かずにいるのだ。当然の如く、われらが何らかの形で奇襲、あるいは挟撃をしてくるやも知れぬと考え、少なからず備えを行っておるはずだ。相手が待ち構えている処(ところ)へ、わずか六千ほどの兵で攻め寄せれば、敵の思う壺に嵌(はま)ってしまう怖れがある。さような事態を考え、余は諸刃の劒だと申したのだ」
 敵の遥か後方に潜んで一気に奇襲をかけ、慌てて山から下り始めた敵を麓で掃討するという挟撃策は実に魅力的である。
 しかし、ひとつでも仕掛けを間違えた刹那、敵に裏の裏をかかれる恐れがあった。
 奇襲をすかされた途端、六千の兵は自分たちを待ち構えている倍の敵と戦わなければならなくなる。そうなれば、まさしく信玄の言った通りの危機が訪れるはずだった。
「それゆえ、これを必勝の策とするには、奇襲の常道を遥かに超えた何かが必要なのではないか」
 信玄は眉をひそめながら言った。
「奇襲の常道を超える奇襲の策、にござりまするか……」
 信繁は顎髯(あごひげ)をまさぐりながら微かに首を振る。
「ならば、御屋形様……」
 飯富虎昌が嗄(しゃが)れた声を発する。
「……いっそ、わが軍勢を真っ二つに割ってはいかがか」
「敵の前後に一万ずつの兵を配するとな?」
 聞き返した信玄に、虎昌が頷く。
「さようにござりまする」
「それは理に適(かな)っておるやもしれぬ。されど、兵部。その配置とならば奇襲ではなく、力攻めの形となるな」
「仰せの通り。御屋形様が軍勢を二つに割ることに対して不安を覚えておられるのならば、いっそのこと一万ずつの兵を配し、同時に敵へ攻めかかればよいと存じまする。前後から一気に挟撃すれば、敵に逃げ道を与える間もなく殲滅(せんめつ)できましょう。さすれば、奇襲だ、力攻めだと策の形にこだわる必要もありますまい」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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