第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
七十一
八月十六日に越後(えちご)勢が妻女山へ布陣してから、すでに二十一日が過ぎていた。
夕刻になると龍眼平(りょうがんだいら/御陵願塚〈ごりょうがんづか〉)に立ち、海津(かいづ)城を見下ろすのが上杉(うえすぎ)政虎(まさとら)の日課となっていた。
しかし、この日に限って政虎の気配が一変する。
「やっと、晴信が開戦の烽火(のろし)を上げたか」
すぐ後ろで、その呟(つぶや)きを聞いていた近習の河田(かわだ)長親(ながちか)に緊張の色が走った。
まるで主君の背から青白い闘気が噴き出したかのように見えたからである。
「古(いにしえ)より、人の営みは敵も味方も変わらぬ。されど、敵がいつもと違う夕餉(ゆうげ)の支度を始めたようだ」
遠方に眼を凝らし、腕組みをしながら呟く。
――そうか! 御屋形(おやかた)様は毎日、これを確かめておられたのか!
河田長親にも敵城の周辺から立ち上る夥(おびただ)しい炊煙が見えた。
――海津城の城兵だけだった頃から、この炊煙の量を見極めておられたのならば、立ち上る数が変化したことは一目瞭然ではないか。まとめて兵食を用意したのだとすれば、それは敵が何かしらの備えを行ったということだ。御屋形様はこれを待っておられたのであり、その御慧眼(ごけいがん)をもってすれば、相手が動く機を読むことなど造作もなかったということか……。
「長親、すぐに皆を集めよ。軍評定(いくさひょうじょう)を行う」
政虎の言葉を受け、河田長親が弾かれたように走っていく。
五つ手の陣を回り、評定の開始を告げるためだった。
各陣から将たちが集まってくるまで、上杉政虎は腕組みをしたまま宵闇(よいやみ)に沈んでいく海津城を見つめていた。
総大将の招集を待っていた越後勢の将たちは、すぐに龍眼平へと駆けつける。
一同が勢揃(せいぞろ)いし、上杉政虎が大上座の床几(しょうぎ)に腰掛ける。
「機は、満ちた」
長い睫(まつげ)を伏せ、政虎が静かな第一声を放つ。
「不動のわれらに業を煮やし、晴信がやっと軍勢を二つに割る決心をし、わざわざ開戦の烽火を上げてくれた」
――開戦の烽火!?……まさか。
誰もがそう思った。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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