よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ――これまで辿ってきた経路から鑑みれば、ここが妻女山の頂きで、景虎のいた本陣であることは間違いないはずだ。されど、この者たちが申したように、人の気配がまったくない。われらを誘(おび)き寄せる罠(わな)なのか!?
 にわかに緊張が走り、昌信は軆を強ばらせる。相変わらず霧が首筋にまとわりつき、喉を締めつけてくるような気がしていた。
「いかがいたしまするか?」
 小畠貞長が顔を寄せ、大将に囁(ささや)きかける。
「時刻は?」
 香坂昌信の問いに、副将は水樽の中を覗き込む。
「もう、ほとんど水がありませぬ。間もなく寅の後刻、約束の刻限は過ぎておりまする」
「さようか……」
 そう呟きながら、香坂昌信は覚悟決める。
 ――もしも、罠が仕掛けられていたとしても、われらに逡巡(しゅんじゅん)している暇はない。決行あるのみだ!
「これより篝火のある処へ寄せるぞ。されど、敵と当たるまで声を上げるな。素早く静かに踏み入るのだ。これを最後尾まで伝令せよ」
 大将の発した命令が、囁き声となって後方まで伝わっていく。
 香坂昌信は音も立てずに佩刀を抜き、身を屈(かが)めたまま篝火の見える方へ躙(にじ)り寄る。副将以下の兵たちもそれに続いた。
 敵本陣と思(おぼ)しき場所へ迫ったところで、香坂昌信は無言で立ち上がり、篝火を目がけて走り出す。それに呼応して兵たちも霧の壁を突き破り、篝火の中へ躍り出る。
 異様な緊張に包まれながら、香坂隊は一気に敵の本陣へ押し入った。
 しかし、そこには夥(おびただ)しい数の篝籠と旗幟が林立しているだけだった。
 香坂昌信が油断なく周囲を睨(ね)め回す。木の葉が摺(す)れる音も聞き逃すまいと神経を張りつめていた。
 香坂隊は輪になり、どこから敵が出てきてもいいように得物(えもの)を構えた。
 それでも、辺りは深閑と静まりかえっているだけだった。
 しばらく、その円陣のままで様子を探り、臨戦の態勢を取る。
「……本当に陣が空だと」
 煌々(こうこう)と焚かれた薪(たきぎ)を見ながら、香坂昌信が呟く。
 その脇で、一本の旗幟に歩み寄った小畠貞長が、大きく舌打ちをする。
「これは紙旗にござりまする」
 副将は忌々(いまいま)しそうに無紋の紙旗を引きちぎった。
 それから、篝火を確かめる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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