第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「この霧中ならば篝火を焚(た)き、足下を照らして水辺を確かめながら歩いても敵から見えぬであろう。おそらく、沢の水流も里の水場に繋がっている」
虎昌は利発な若武者の顔を見つめる。
「では、それがしが水辺を探してまいりまする」
甘利昌忠は一礼し、踵を返そうとした。
「待て、昌忠! 水辺を辿って霧の中を進めば、いきなり敵の陣中真っ只中ということもあり得るのだぞ」
虎昌の言葉に、若武者が振り返る。
「それならば、本望にござりまする。それがしがまっすぐに村上義清の喉笛へ嚙みつき、食いちぎってやりとうござりまする」
その双眸(そうぼう)には真剣な光が宿っていた。
それを見た虎昌は洗われたような面持ちとなる。
――やはり、虎の子は、虎だ。甘利殿、よくぞ、この子を武田に残してくれた。昌忠の申す通り、たとえ不意に敵陣の只中へ出ようとも、何を恐れることがあろうか。狙いは、村上の首級ただひとつ。そのために、ここまで来たのではないか。
「よし、昌忠、そなたは手下を連れ、水辺を探してまいれ」
「はい。畏(かしこ)まりましてござりまする」
甘利昌忠は一礼し、素早く踵を返した。
飯富虎昌は各隊の頭を集めて言い渡す。
「これより水辺を辿り、神速にて行軍いたす。霧の向こうにすぐ敵がいると思い、常に臨戦の態勢を取って進むのだ。さすれば、出会い頭の戦いとなっても、こちらの有利に変わりはない。よいな!」
「はっ!」
各隊の頭たちは一斉に声を上げた。
虎昌は漏刻で時の刻みを確認する。
─すでに丑の刻終わり(午前三時)か。相当に急がねばなるまい。
あと半刻で、約束の戦いが始まるはずだった。
同じ頃、妻女山脇の林道を香坂昌信の奇襲隊が進んでいた。
重く湿った霧が首筋にまとわりつき、それを振り払うように昌信はしきりに右手で喉元をまさぐる。
苛立ちのあまり、無意識にその行為を繰り返していた。
「物見はまだ戻らぬのか?」
香坂昌信は眉をひそめ、隣にいた足軽頭に訊く。
荒々しい声をぶつけられた者が首をすくめ、怯えたように答える。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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