よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   七十

 海津城の大広間が緊迫した空気に包まれていた。
 武田の将たちが評定の場に勢揃いしており、いずれも強(こわ)ばった面持ちで押し黙っている。
 ――本日の評定が、おそらく戦の大きな岐路となるであろう。
 どの顔にもそんな重圧が浮かんでいた。
 しかし、まだ、大上座に総大将の姿はない。
 決められた時刻をとうに過ぎていたが、信玄がこの場に現れる気配はなかった。
「それにしても、御屋形様は遅い。朝から室に籠もりきりで、お加減でも悪いのであろうか。何か、あったのではないか」
 飯富虎昌が憮然(ぶぜん)とした面持ちで呟く。
 信玄はここ数日、奥の間へ籠もったきりである。しかも、奥近習(おくきんじゅう)さえ近づけず、一人で思案に耽(ふけ)っていた。
 日頃から話好きの主君が、人払いをするのは稀(まれ)なことである。それだけ事態が深刻な局面を迎えているという証左だった。
 家臣たちの誰もが痛いほどにそれを感じている。
 さすがに焦れている重臣の横顔を見て、弟の信繁が控えていた奥近習に命じる。
「昌幸(まさゆき)、ちょっと御屋形様のご様子を見てきてくれぬか」
「はい。畏(かしこ)まりましてござりまする」
 命じられた真田昌幸は、一礼してから弾かれたように奥の間へ向かう。
「陣替えを通して越後勢に帰国を促すという策は、少しばかり手緩(てぬる)かったかもしれぬな」
 奥近習の後姿に眼を止めながら、飯富虎昌が誰に言うともなく呟く。
 ――帰師(きし)には遏(とど)むること勿(な)かれ、囲師(いし)には必ず闕(か)き、窮寇(きゅうこう)には迫ること勿かれ。この戦、引き分けでよいではないか。片意地を張らずに、もう国へ帰るがよい。
 それが信玄の投げかけであり、孫子を引用しながら、自軍の陣替えをもってして無言で相手に帰国を促す策をとった。
 たとえ帰国にまでは及ばないとしても、確かに兵法の常道からすれば、越後勢が下山するにはこの時が最善の機だったはずである。
 もしも、上杉政虎が妻女山を下り、己の退路を確保しながら茶臼山の麓にでも野戦陣を張れば、しばしの睨み合いを経て、合戦は緩やかな分かれで終わる可能性があった。
「やはり、景虎は退陣の横腹を突かれることを怖れたのではないか。それにしても、われらの動きをまったく無視するとはな」
 室住虎光が呟く。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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