第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
千曲川の両岸は再び静まり返り、川中島は息を詰めるような沈黙に戻った。
そして、陽が沈むと、武田勢に新たな動きが起こる。
晦(つごもり)の闇を利用し、信玄があっさりと茶臼山の陣を引き払ってしまった。
山全体に捨篝(すてかがり)だけを残し、越後勢には何も動きがないように見せながら、旗本衆と第二陣を引き連れ、信玄の本隊は広瀬(ひろせ)の渡しを通って海津(かいづ)城へと入った。
茶臼山には後詰として馬場信房の隊だけが残る。
信玄は最初から下山するつもりで、まず布石として千曲川の二つの渡しを封じた。
しかし、夜更け過ぎには雨宮と屋代の渡しを封じていた武田信繁と飯富虎昌も静かに陣を引き払い、海津城の対岸にある八幡原(はちまんばら)へと移動する。
残ったのは、小市の渡しと丹波島を封じた真田幸隆の中備隊と山本菅助の足軽隊だけだった。
腕組みをして犀川を見つめる真田幸隆のところへ、古傷のある左足を引きずりながら山本菅助がやって来る。
「道鬼斎(どうきさい)殿、いかがなされました?」
「いや、なに、そなたと少し話がしたいと思うてな」
山本菅助は眼帯を直し、右眼を細めてにやりと笑う。
「何の話にござりましょうや?」
幸隆は苦笑しながら訊く。
「さきほど先陣から報告があり、あの山頂からまだ平家琵琶(へいけびわ)の音が流れてくるそうな」
菅助は妻女山を指す。
「景虎の酒盛りにござるか?」
「であろうな。武田の先陣が渡しを封じていたというのに、これまでと何ら変わらず酒宴を開いておるらしい。まったく、ここまで開き直られると、敵ながら天晴れと言いたくなるの。一徳斎(いっとくさい)殿、やはり、あれも胆力と評すべきなのか?」
「と、申しますると?」
「御屋形様の怖さを知りつくしているわれらからすれば、景虎の振舞いは正気の沙汰と思えぬ。童(わらわ)が無造作に虎の髭(ひげ)へ手を伸ばすようなものだからの。それゆえ、景虎が胆力で微動だにせぬのではなく、すでに正気を失っているのではないかと思うたのよ」
「まさか……。もしも、さようなことがあるならば、末端の敵兵から動揺が見てとれましょう。先陣の典厩(てんきゅう)殿がそれを見逃すはずはござりませぬ」
「では、怯えきった景虎がやけくそになり、虚勢を張っておるとか?」
「それも考えにくかろうと」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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