よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「御大将、いかが思われまするか?」
 小畠貞長は半信半疑の表情で訊ねる。
「敵の本陣が本当に空ならば、われらの奇襲が読まれているということになる。それは由々しき事態だ。されど、この策が簡単に見破られるとは考えられぬ。もしかすると、われらの奇襲を警戒し、景虎が本陣を移したのかもしれぬ」
「それで、元の陣はそのまま囮(おとり)に使っている、と。なるほど、あり得ぬことではないかもしれませぬ」
「そうだとしても、われらにそのことを確かめている猶予はない。天城山の隊とも連絡が途絶えており、このまま手をこまぬいておれば、約束の刻限にも間に合わぬ」
 香坂昌信は腕組みをして目を瞑(つむ)る。
 そのまま、しばらく何事かを思案していた。
「……いかがいたしまするか?」
 小畠貞長は焦(じ)れたように声をかける。
「決めた通りに、奇襲を決行するしかあるまい」
 眼を開けた香坂昌信が言い放った。
「承知いたしました!」
「先ほどの者どもを先導に立て、兵を忍ばせてから一気に押し入るぞ!」
 若き大将の即断により、香坂隊は窪地を発する。
 物見の案内により、香坂昌信自らが先頭で獣道を進み、気配を殺しながら妻女山の北側へと迫った。
 相変わらず霧中の行軍であったが、やがて、物見の足軽が言っていたように薄ぼんやりと灯りが見えてくる。少しずつ近づくにつれ、視認できる灯りの数が増え、それが篝火だとわかった。
 旗幟(きし)らしきものも立っており、そこが陣であることは、ほぼ間違いないようだった。
 先導していた物見の足軽が足を止める。
「そなたらが近づいたのは、ここまでか?」
 声をひそめて小畠貞長が訊く。
「へえ、さようにござりまする」
 藪の中にしゃがんだ足軽が小声で答えた。
 香坂昌信は五感を研ぎ澄まして篝火のある場所を見つめる。
 確かに、灯りの中に人影はなく、甲冑(かっちゅう)の擦(こす)れ合う微かな音さえ響いてこない。
 というよりも、何の気配も感じることができなかった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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