第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
その攻撃を空振りさせ、数の減った信玄の本隊を一気に攻めるという軍略を描いている。
いわば敵の奇襲をすかした上で、二重の奇襲を仕掛ける策である。
「敵の奇襲隊を引きつけておかねばならぬゆえ、山へ入った敵兵どもが大嵐山(おおあらしやま)の頂きを越えたあたりで下山を始めるのがよかろう。敵は一斉に動かぬ。闇夜の山中を先導する忍びの者が必ず先に動くはずゆえ、大嵐山に軒猿(けんえん)どもを配し、知らせを待つことにする。その報告が入ったならば、いつでも動けるように備えをしておく。春綱(はるつな)、それでよいな」
政虎は軒猿頭の加地(かじ)春綱に確認する。
「はい、仰せの通りに手配りしておりまする。されど、御屋形様、まことに敵の忍びを打ち倒さなくてもよろしいのでありましょうか」
「春綱、歯痒(はがゆ)いであろうが、大嵐山ではまだ三ッ者(みつもの)どもを遊ばせてやるがよい。ただし、鞍骨山(くらぼねやま)を越えようとしたならば、容赦なく打ち倒してもよい。ちょうど、その頃には退陣が終わっているはずだ。鞍骨山へ物見に出た者が帰ってこないとあらば、後続の兵は不審に思って動けなくなる。いずれは痺(しび)れを切らして動くであろうが、それだけの遅延を稼げるならば充分である」
「御意!」
「敵の物見を打ち倒したならば、さっさと引き上げて殿軍(しんがり)を務める景持(かげもち)に伝えよ。最後の者が陣を引き上げる機はそこである。景持、そなたはわれらが陣に留まっているように見せかけるため篝火(かがりび)を絶やさずにここで待て。軒猿どもが引き上げてきたならば、すぐに下山いたし、雨宮(あめのみや)の渡しを封じよ」
上杉政虎は甘粕(あまかす)景持に命じる。
「御意!」
「陣が空だとわかった刹那、奇襲に回った敵の者どもは雨宮へ殺到するであろう。そこでしばらく持ちこたえよ。ただし、無理はせぬようにいたせ。危ないと感じたならば、すぐに兵を退き、本隊に知らせるのだ。それがわれらの退却の合図となる。そなたが持ちこたえれば持ちこたえるほど、われらが晴信の本隊と戦う時を稼げる。されど、それは裏を返せば、そなたが無理をすればするほど本隊の退却が遅れるということでもある。よって、くれぐれも無理に敵を押し留(とど)めようといたすな。逆に、いつもより一呼吸早く退却の機を見極めよ」
「はっ。その御言葉、しかと肝に銘じておきまする」
甘粕景持は引き締まった顔で答える。
上杉政虎は淡々と己の描いてきた軍略を語っているが、将たちにはまるで一度見聞した戦の話を聞いているような心地がしていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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