第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「……それがしに異存はござらぬ」
「豊後(ぶんご)殿……。かたじけなし」
飯富虎昌は深々と頭を下げる。
「なんの、なんの、礼には及ばぬ。戦場で馬に乗らぬ兵部など、二度と見ることなどできまいて。儂(わし)はそれが見たいだけじゃ。先陣はわれらにまかせて、存分に暴れてくるがよい」
室住虎光は皺(しわ)だらけの顔で豪快に笑う。
真っ先に反対すると思われていた飯富虎昌が、菅助の策に乗ったことで評定は一気に奇襲へ傾いていく。
ところが、それを制して信玄が言い放つ。
「皆は菅助の策に乗り気のようだが、まだ一等大事なことが抜け落ちておる。それが決まらぬうちは、この策を用いるわけにはいかぬ」
総大将の冷徹な声に、大広間が静まりかえる。
居並ぶ将たちも戸惑い、評定はいきなり行き詰まってしまった。
そこで、しばしの休憩を挟み、夕餉(ゆうげ)の後に再開する運びとなる。
重苦しい空気の中で皆は食事を摂(と)り終え、海津城は戌(いぬ)の刻(午後七時)を迎えた。
それぞれの思案を抱えた将たちが再び集い、灯(あか)りが入れられた大広間で二度目の軍議が開かれた。
沈鬱な雰囲気を打ち払うように、大上座についた信玄が自ら口火を切る。
「戦模様を一変させるほどの策には、常にいくつかの難点がついて回る。ともすれば、それがわれらの弱点と化し、敵につけ込まれて思わぬ敗北を招くこともある。つまり、われらが選ぼうとしている策は、まだ勝敗が紙一重で分かれる諸刃の劒(つるぎ)であるということだ」
重々しい言葉に、将たちはいずれも渋い表情で真一文字に口唇を結ぶ。
しばしの沈黙があり、信繁が怪訝(けげん)そうな面持ちで訊く。
「では、兄上、かの策にご反対なさりまするか?」
「いや……」
信玄はゆっくりと首を振る。
「……反対というわけではないのだ。実は余も、朝から同じような策を案じておった」
「さようにござりまするか」
信繁は微かな安堵(あんど)の色を浮かべ、静かな口調で問う。
「では、御胸中に浮かんでいる危惧につきまして、是非とも、われらにお聞かせ願えませぬか」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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