よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「菅助様、これは?」
 樽を覗いた足軽が訊く。
「行者大蒜(ぎょうじゃにんにく)を漬け込んだ味噌よ。これを使えばな、二、三日は寝られなくなるほど精がつく。それゆえ、里へ戻っても、嬶(かか)には喰わせぬ方がよいぞ」
 菅助が意味ありげに笑い、足軽たちは顔を見合わせて忍び笑いをこぼす。
 行者大蒜はその名の通り、山野の遊行で食を調達しなければならない修験僧(すげんざ)の間に伝わる滋養強壮の野草だった。ただし、あまりに精がつきすぎて眠れなくなるため、逆に修行中は食べることを禁じられたとも伝えられる葱(ねぎ)の一種である。
 大蒜と同じくらい強烈な匂いをもった葉と根を、そのまま茹(ゆ)でて食べることもできるが、夏に採ったものを味噌や醤油に漬け込めば、肌寒い季節を迎える頃には風味と滋養の染みこんだ最高の調味料として使うことができた。
「よぉし、良い味じゃ。軆に力が漲(みなぎ)るわい」
 味噌を溶いて味見をした菅助が満悦の面持ちで唸る。
「ささ、他の鍋にもこの秘伝の味噌を使い、味付けをいたせ」
 夫丸の手配りを見つめる菅助の背後から嗄れた声が響く。
「たまらぬ匂いではないか、道鬼斎殿」
 赤備衆の大将、飯富虎昌が立っている。
 その隣には気骨の老将、室住虎光もいた。
「おお、兵部殿、豊後殿」
「ひょっとして、それは御屋形様御用達(ごようたし)の、あれか?」
 虎昌が鍋を覗き込む。
「いかにも。汁を味見なさるか?」
「いや、出来上がってから遠慮なくいただこうぞ」
「では、これより麺を入れますゆえ、しばし、お待ちあれ」
 菅助が作っていたのは、信玄が最も好んでいる陣中食、「ほうとう」だった。
 ほうとうは、甲斐に伝わる鄙(ひな)料理であり、穀粉(こくふん)の平打ちの麺を季節の野菜と一緒に味噌仕立ての汁で煮込んだものである。
 麺は饂飩(うどん)に似ているが、甲斐では饂飩を「ゆもり」と呼び、「ほうとう」とは区別している。また、饂飩のように粉と塩を混ぜていないため、麺を別茹でにする必要がなく、鍋の汁で煮込むのも、この料理の特徴だった。
 行者大蒜を漬けた味噌を使う調理法は菅助独自のものだったが、信玄はこれをいたく気に入り、「御膳ほうとう」と称し、度々陣中で作らせている。特に「伝家の宝刀を抜く」という縁起を担ぎ、大事な戦いの前に食することが多かった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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