第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「先ほどの話は本隊に合流してから、うまく進めましょうぞ」
真田幸隆は笑顔で言った。
「よろしくお願いいたしまする」
山本菅助は頭を下げてから、自陣へ戻っていった。
夜が明ける前に、小市と丹波島を封じていた二隊も八幡原へ移動する。
すべての陣替えは月隠(つきごも)りの闇に紛れて整然と行われ、九月朔日(ついたち)の払暁を迎える頃には川中島の様相は一変していた。
それは妻女山に陣取る上杉政虎からも察知できたはずである。
しかし、信玄は自軍の動きを敵に知られることを回避しなかった。
いや、あえて大きな動きを気取らせていた節がある。
それには大きな意味があった。
信玄はまず、これらの陣替えで自軍の数的な優位を敵に見せつけるつもりだった。
それから、千曲川と犀川の渡しを大きく開け放ち、相手の退路を作ってやった。
大局観をもって川中島の全体を俯瞰(ふかん)したならば、この時こそが越後勢の下山する好機となるはずだった。
武田勢は対陣の構図を解き、すべての渡しを開けている。
上杉政虎の本隊が下山し、総軍で千曲川の渡河を行えば、武田勢が陣取っていた布施五明の辺りに野戦の陣を構えることができる。加えて、善光寺脇にいる後詰と連係を取れば、ほとんど不利をこうむることはない。
越後勢に帰国の意思があれば、しばしの睨み合いを経た後、戦いは緩やかな分かれで終わらせることができる。
『帰師(きし)には遏(とど)むること勿(な)かれ、囲師(いし)には必ず闕(か)き、窮寇(きゅうこう)には迫ること勿かれ』
孫子(そんし)の兵法第七「軍争篇(ぐんそうへん)」の最後に記された一節である。
「母国に帰ろうとする敵軍をひき止めてはならず、包囲した軍には必ず一カ所の逃口をあけておき、進退きわまった敵に迫ってはならない」
そんな意味のある一節を引用し、信玄は無言で相手に帰国を促していた。
――この戦、引き分けでよいではないか。片意地を張らずに、もう国へ帰るがよい。景虎、うぬとて、この陣替えの意味がわからぬほど愚鈍ではあるまい。
信玄は「戦わずに勝つが兵法なり」を信条とし、「戦の勝ちは六分が最上」と考えるほど実利を好んでいる。
それゆえ、大戦は自軍の損害をいたずらに増やすだけで、戦利に見合わないと考えていた。
だから、このまま相手が善光寺まで後退すれば、武田勢が一歩退いたように見えながらも、実質は戦わずして勝ったも同然の結果となる。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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