第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「なんだ、これも捨篝(すてかがり)ではないか。くそ、ふざけおって!」
小畠貞長が罵声を浴びせながら篝籠を蹴倒す。
辺りに紅く灼(や)けた薪が散乱し、火の粉が飛び散った。
「御大将、計られたのではありますまいか」
その言葉を聞いた刹那、香坂昌信は脳天に雷が落ちたような衝撃を感じる。
――空陣に、伏兵もなし。……ということは、完全にわれらの奇襲が読まれていたのか!?
そう思いながら軆が硬直し、不意に眩暈(めまい)を覚える。
「……か、海津城が危ない! いや、御屋形様の本陣が危ない!」
香坂昌信はわれを忘れて叫ぶ。
その声に驚き、兵たちが一斉に大将の顔を見つめる。
「今すぐ、ここを下りるぞ! 赤坂山は、清野(きよの)の方角は、どっちだ?」
血の気を失った顔で叫ぶ昌信を見て、小畠貞長も狼狽(ろうばい)する。
「御大将、なにゆえ……」
「読まれていたのだ!」
香坂昌信が地団駄を踏む。
「……われらの奇襲が景虎に読まれた。これが奇襲に対する待ち伏せではないのならば、越後勢はすでに下山しておる。そうとなれば、御屋形様の本隊が襲われる!」
その叫び声で、やっと事態を呑み込んだ副将も蒼白(そうはく)になる。
「真田殿と馬場殿は?」
「何かの策に嵌(はま)って遅れているのであろう。待ってはおられぬ! とにかく、御屋形様を救うのだ。それゆえ、最短の経路で清野へ下りねばならぬ。……どっちだ、どっちの方角だ?」
動転した昌信の挙動が定まらない。
気が急(せ)くだけで、足が地についている感触を失っていた。
「今し方、来た方向を少し西に行けば、赤坂山にござりまする。おい、手分けをして降り口を探せ! 急げ!」
小畠貞長も目を剥き、喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。
香坂隊は上杉政虎の仕掛けた空蝉(うつせみ)の陣を飛び出し、妻女山の一段下にある赤坂山を通り、最短で海津城のある松代へ向かおうとする。
香坂昌信は、走りながら何度も咳(せ)き込む。
心の蔵が喉元にせり上がり、呼吸を圧迫しているような気がする。動悸(どうき)は早鐘の如く高まり、何度も吐気に襲われた。
奇襲隊に回った武田勢の中で、この漢がまず最初に事態の深刻さを痛感していた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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