よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 真田幸隆も微かな笑みを返しながら頷いた。
 こうして武田奇襲隊は当初の予定を変え、それぞれに分かれて行軍を再開する。
 それから数刻を経た丑(うし)の刻(午前二時)頃、 飯富虎昌の率いる赤備衆が昏(くら)い藪の中で立ち往生していた。
 鏡台山から三滝道を下り始めた途端、濃霧に包まれて数歩先の視界も定かではなくなった。
 不慣れな暗中の山歩きに加え、予想だにしなかった霧の深さに、立っているだけで方向の感覚を失い、己がどこにいるのかわからなくなる。
 ――これでは、まるで遭難したような有様ではないか。やはり、馬を下りて山の中へなど入るべきではなかったか……。
 さしもの猛将も苦渋の面持ちで立ち竦(すく)んでいた。
 その間にも携えた漏刻(ろうこく/水時計)が容赦なく時を刻んでゆく。
 真田幸隆と馬場信房の軍勢六千が大嵐山から尾根伝いに鞍骨山、天城山を抜け、妻女山の本陣を囲み、香坂昌信はその下の林道を進んで妻女山の隣に位置する赤坂山(あかさかやま)の方角から敵陣に寄せるはずだった。
 そして、飯富虎昌の赤備衆は、鏡台山から三滝へと下る経路を行くことになっている。そこから倉科の里まで一気に下れば、そこは村上義清の陣がある矢代生萱(やしろいきがや)の背後である。
 真田、馬場、香坂の三隊が三方から越後勢の本陣に襲いかかり、山から追い落とし、飯富の赤備は村上の軍勢を殲滅した後、山から転げ落ちてくる越後勢を雨宮の渡しから川中島へと追い込んでゆく。
 そして、八幡原(はちまんばら)で待ち受けている信玄率いる八千の兵が残りの越後勢を掃討する。それが武田のとった啄木鳥(きつつき)の戦法だった。
 肝心なのは、奇襲に回った四隊が同じ刻限に呼吸を合わせて攻め込むことである。これがばらばらになると、策そのものが瓦解(がかい)する恐れすらあった。
 それゆえ、四隊は同じ漏刻を使って時を計りながら奇襲の刻限を目指していた。
 ところが、鏡台山を下り始めた赤備衆は、すぐに霧の壁に阻まれ、進路を見失ってしまう。一刻半の時が経っていたが、おそらく予定の行軍の半分もこなせていないようだった。
 飯富虎昌の苛立ちが募り、やがて、それが焦りへと変わっていく。
 己がどこにいるのかわからなかったが、胸の裡で警鐘が鳴り響いている。このままでは奇襲の刻限に間に合わないという古兵(ふるつわもの)独特の勘だった。
「何をぐずぐずしておる! さっさと進まぬか!」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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