よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「やっと、戻ったか」
「されど、この者たちが奇妙なことを申しておりまする」
 小畠貞長の背後に、物見へ出た足軽たちが控えていた。
「奇妙なこと?」
 香坂昌信が眉を吊り上げて聞き返す。
「妻女山の本陣に人の気配がないと申しておりまする……」
 小畠貞長も小首を傾げながら答えた。
「さようなはずはあるまい」
「おい、お前たちの口から直(じか)に申し上げよ」
 小畠貞長は足軽を促す。
「……へ、へえ。わしら、霧が深いんで用心しながら一歩一歩、進んだんだども、なかなか敵の本陣が見えてこえねもんで……」
「途中の話はいらぬ! 敵陣の話をせぬか!」
 大将の一喝に話を遮られ、足軽は首をすくめて上目遣いになる。
「……あ、相すみませぬ。き、霧の中で、うすぼんやりと篝火が見えたんで、わしら、あれが敵の本陣だと思いました。篝火の数が尋常ではねえし、火も勢いよく焚かれてたもんで、間違いないと思いまする。だけんど、いくら目を凝らしても、その篝火の間に人の影が見えねえし、音も聞こえねかったので、もう少し近づいてみようということになって……。ほんで、恐る恐る近くに寄ってみたんだども、まったく人の気配がしなくて、あれは篝火と旗しかねえ、空っぽの陣ではねえかと思い……。そいで、戻るのが遅くなりまして……」
 物見に出た足軽の話を聞き、香坂昌信と小畠貞長は顔を見合わせる。
「それはまことの話か。役目をうまく果たせず、戻りも遅れたゆえ、適当なことを申しているのではあるまいな?」
 小畠貞長が詰問する。
「ほ、本当のことですだ。わしら、里で猟師もしてますだで、ひ、人や獣の気配を読むのだけは得意で……」
「うぅむ……。嘘は言っておらぬようだな。それで、そなたらはその篝火が見える処まで、もう一度われらを先導できるのか?」
 香坂昌信が訊く。
「へ、へえ。そりゃあ、もう……」
「よし、わかった。後ほど案内をしてもらうゆえ、物見に出た者を揃えて待っておれ」
 大将の命令に何度も頭を下げながら、足軽たちは足早に去った。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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