よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「かかる策は、木のうろに閉じ籠もった芋虫の如き敵を表へ引きずり出すために案じましてござりまする。いわば、わが軍勢は、この蟄虫(ちっちゅう)を喰らう啄木鳥(きつつき)の如きもの。かの鳥は蟄虫の潜む幹の反対側を嘴(くちばし)にて啄(つつ)き、驚いた芋虫が顔を出したところを素早く捕らえて喰らいまする。それゆえ、これに倣(なら)えば、この策は単に軍勢を二つに割るという策ではなく、総軍が一羽の鳥となり、阿吽の呼吸にて動くものにござりまする。そして、敵の背後に回る兵たちが、いわば嘴の役目をする一隊ということになりましょう」
「木幹を啄(つつ)き、蟄虫を啄(ついば)む戦法であるか。言い得て妙よ。されど、菅助、そなたはまだ肝心なことを語っておらぬ。その鳥の嘴とは、いったい、いかなるものか?」
 信玄は、背を丸めた隻眼の老将に扇を差し向ける。
「啄木鳥は、たかだか蟄虫一匹を喰らうにも、幹一本を倒すが如き勢いで啄きまする。おそらく、芋虫にはその音が雷鳴のように聞こえ、その震えが山崩(やまくずれ)でも起こったように思えるのでありましょう。そこまでしなければ、蟄虫もおいそれとは顔を出しませぬ。つまり、かの鳥は全身全霊にて幹を啄撃(たくげき)いたしまするが、それに耐えうる強靱(きょうじん)な嘴を持っているものと存じまする」
「では、強靱な嘴が啄木鳥のすべてと申しても過言ではないということか」
「はっ、仰せの通りにござりまする」
「その要諦から鑑みれば、かかる策におけるわれらの本隊とは、まさに奇襲へ向かう兵だということになる。しからば、その数は、最低でも相手と同等でなければならぬ」
 信玄の言葉に、ほとんどの者が息を呑む。
「お、御屋形様、まさか御自身が背後へ回る隊に加わるという肚づもりではありますまいな?」
 飯富虎昌が驚愕(きょうがく)の表情で訊く。
「さようなつもりはない。余は麓にて景虎が下りてくるのを待つ」
「されど、御屋形様をお守りする軍勢が七、八千では……」
「少ない軍勢では、余が景虎に太刀打ちできぬと心配か、兵部」
 信玄は不敵な笑みを浮かべる。
「さようなことは思うておりませぬ。されど、奇襲に回す兵の数が、総大将の率いる本隊よりも多いなどという策は、古今東西、聞いたことがありませぬ」
「兵部、いま申したように、そなたが担おうとしておる奇襲隊が、この策の本隊である。余のいる隊が、常に武田の本隊であるなどという考えは捨て去るがよい。さようにありきたりの考えは相手に読まれやすく、急場では何の足しにもならぬ。兵法の常道など捨て去り、眼前の戦局を動かすための最善の一手だけを考えればよいのだ。相手と同等の数を背後へ配したならば、よほどのことがない限り、力負けで押し返されるということは考えられぬ。それよりも、この策にかぎっては敵勢をあの山から追い落とせぬということの方が、由々しき事態を招くはずだ。それゆえ、敵と同数の兵をぶつけてはどうかと申しておるのだ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number