八 晴信(はるのぶ)の初陣が終わった翌年の二月、甲斐の新府は新たな慶事に沸いていた。 武田信虎(のぶとら)の長女、恵姫が駿河(するが)の今川(いまがわ)義元(よしもと)に輿入(こしい)れする日取りが決まったのである。 武門の婚儀は、嫁が輿や荷車などを連ねて婿の下へ向かうため、文字通り「輿入れする」と言われた。 嫁を送り出す家は神聖な松の木を焚(た)いて門火(かどび)を行い、花嫁となる娘は輿の中に安産の守神、犬張子の入った箱を二つ置いて門を出る。婿の方でも花嫁御寮を歓迎するため辻々に門火を焚き、花嫁の輿が門に入る時に請取渡(うけとりわた)しの儀が行われる習わしとなっていた。 だが、国主の娘が国境(くにざかい)を跨(また)いで他国主に嫁ぐとなれば、家中での婚儀とは違い、警固も含めて両国の大掛かりな調整が必要となる。輿の請取渡しの儀も花婿の門前ではなく、国境で行われることに決まった。 晴信も傅役(もりやく)の板垣(いたがき)信方(のぶかた)と一緒に、甲斐と駿河の境となっている万沢(まんざわ)まで恵姫の一行を嚮導(きょうどう)することになった。 躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)をはじめとして新府の門という門で松篝(まつかがり)が焚かれ、恵姫が乗った輿の行列が駿府へと出立する。万沢までは身延(みのぶ)道(駿州往還)で十九里(七十六キロ)の行程であり、休みを取らずに歩いても十刻(二十時間)ほどはかかるため、一行は途上の身延宿で一泊した。 宿所となった身延山久遠寺(くおんじ)に入り、晴信が駿河との国境までの距離を訊ねる。 「板垣、ここから万沢宿までは、どのくらいであろうか?」 「六里(二十四キロ)ほどにござりまする。ゆっくりと進んでも、半日はかかりませぬ。今川家と和睦する前は、用心の上にも用心が必要でありましたが、今は安心して進めまする」 信方がこの辺りの地勢に詳しいのは、今川家で起こった内訌(ないこう)、「花倉(はなくら)の乱」に出張った経験があるからだった。 「ところで、今川家から請取渡しに出てくるのは誰であろうか。まさか、婿の義元殿が迎えに来るということもあるまい」 「おそらく、義元殿の傅役ではありますまいか。そうであれば、存外、知らぬ相手でもありませぬ」 信方は以前に万沢で逢った太原(たいげん)雪斎(せっさい)の不敵な面構えを思い浮かべていた。