「さようか」 「若、恵姫様とお話はできましたか」 「ああ、昨晩、母上と一緒に夕餉(ゆうげ)の膳を囲んだ」 昨夜、身内だけの晩餐が行われることになった。 恵姫は信虎と大井の方の間に初めて生まれた子であり、晴信よりもひとつ歳上の実姉である。そして、二男の次郎とこの年で齢(よわい)六となる三男の孫六(まごろく)も同じ大井の方の子であり、同母の姉弟はこの四人だった。 しかし、最後まで夕餉の席に父の信虎が現れることはなかった。娘との別れは先に済ませており、家族水入らずの団欒(だんらん)は避けている。政務が忙しいという理由だったが、その実は最も若い側室のところで酒色に耽(ふけ)っていたようだ。 「……されど、何だか照れくさくて、思ったように話ができなかった。途中から孫六が姉上と離れたくないと哭(な)き出し、次郎もつられて、ぴえぴえと哭き始めたせいもあるのだが。あ奴もまだまだ小童(こわっぱ)だ。母上と姉上のもらい哭きには、正直まいった」 晴信が家臣などを交えずに弟の次郎と膳を共にするのも久方ぶりだった。 それも父親との不和がもたらす歪(ひず)みのひとつであり、家中の人間関係にも大きな影響を与えていた。 「恵姫様とは、駿府で再会なさることもできましょうて。今川家との盟約が続く限り、われらを隔てるものはありませぬ」 信方はあえて晴れ晴れとした笑顔で言う。 「そうだな」 晴信も笑みを作りながら頷(うなず)いた。 その翌朝、武田家の一行は身延宿を出立し、三刻(六時間)ほどで万沢へ到着する。 晴信は塗輿(ぬりごし)に歩み寄り、声をかけた。 「姉上、国境に到着いたしました」 御簾(みす)を上げ、恵姫が答える。 「晴信、父上様の代わりに、ここまで送ってくれてありがとう」 「姉上、お気をつけて。何かありましたら、すぐに文(ふみ)をくだされ」 「はい。どうか、父上と母上をよろしくお願いします」 「……この身はまだまだ力不足にござりまする。お二人を守れるほどの度量はありませぬ。特に、父上はこの身をお認めくださっておりませぬ」 顔をしかめながら、晴信が俯(うつむ)く。 「いいえ、そなたならば大丈夫」 恵姫は弟の両手を取り、言葉を続ける。