義元は昨年、花倉の乱を制して家督を嗣いだばかりで、これは武田家との同盟を固める婚姻であり、発案したのは太原雪斎だった。 両家はそれぞれが抱える事情から、新しい盟約を歓迎していた。 しかし、この婚姻に対して異議を唱えた者がいる。 長らく今川家と同盟の関係にあり、武田家とは敵対していた北条(ほうじょう)氏綱(うじつな)だった。 元々、北条家は武田との盟約に異議を唱えていたが、今回の婚儀に対して氏綱が激怒し、すぐに兵を動かしてくる。二月二十六日に北条勢が駿河の河東(かとう)(富士川東岸)に侵攻し、三月四日には駿府を睨(にら)んで富士宮の吉原(よしはら)城に布陣するという事件が起きた。 ここは今川家と北条家の双方にとって因縁のある地だった。 北条侵攻の一報は、甲斐の新府にも届けられ、今川義元は富士裾野での挟撃を願ってくる。 これに応じ、武田家も駿東郡の北側に兵を出すことになった。 ただし、戦続きで家中に余力がなかったこともあり、信虎は一計を案じ、通常の出兵ではなく少し変わった形での援軍を仕立てる。 それにより、信方の処へ珍しい人物が訪ねて来た。 「虎昌(とらまさ)!?……飯富(おぶ)虎昌ではないか。久しいの」 「駿河守殿、長きにわたる無沙汰をしておりました」 挨拶に訪れたのは、これまで新府に入ることを禁じられていた後輩の飯富虎昌だった。 「そなた、ここへ来ても大丈夫なのか?」 信方は驚きながら訊く。 「はい。御屋形様にお許しをいただき、出陣の前にご挨拶に参りました」 飯富虎昌は髭面をしかめ、照れくさそうに頭を搔く。 「出陣?……ならば、富士の裾野へ出張るのは、そなたであったか」 「はい、さようにござりまする。御屋形様のお情けにより、こたびの出陣で手柄を立てることができれば、帰参を許していただけることになりました」 「それは何よりだ。そなたのような武辺者(ぶへんしゃ)が戻ってくれれば、われらも心強い。よかった、よかった」 信方は虎昌の肩を力一杯叩き、喜びを露(あら)わにした。この漢は今年で齢三十二になり、信方の一回り以上も歳下の後輩である。 飯富家は源義家(よしいえ)の孫にあたる源忠宗(ただむね)を始祖とし、武田家と同じく清和(せいわ)源氏の一流であり、甲斐の巨摩(こま)郡飯富郷(いいとみごう)を本貫の地としてきた。 虎昌の父、源四郎(げんしろう)と祖父の飯富道悦(どうえつ)は信虎の重臣として仕えていたが、西郡の国人である大井信達(のぶさと)との戦いにおいて討死している。この大井信達の娘が後に信虎の正室となり、晴信を産んだ大井の方だった。 父の源四郎が討死した永正(えいしょう)十二年(一五一五)に、虎昌は齢十二で飯富家を嗣ぎ、信虎の近習(きんじゅう)として仕えた。その時に面倒をみていた上輩が甘利(あまり)虎泰(とらやす)だった。